夢燈籠 狼を野に放て第45回

十三

 六月十一日の午後三時、銀座八丁目の第二千成ビル八階にある東洋郵船では、いつもと同じ一日が終わろうとしていた。
 そこに一人の若者がやってきた。
「どちら様ですか」と受付嬢が問うと、若者は「社長はいますか」と問い返した。
受付嬢は「おりますが、今は来客中です。よろしければ、こちらでお待ち下さい」と言って、受付前のソファーを指し示した。しかし若者は「分かりました。すいませんが、急いできたもので、喉がカラカラなんです。水を一杯いただけますか」と返した。
「かしこまりました」と言いつつ受付嬢が席を外すと、若者は勝手に社長室に向かった。そこは最も奥まった場所で、ご丁寧にも金文字で「社長室」と書かれていた。
 若者はポケットの拳銃を握り締めると、ドアのノブを回して中に入った。
 そこには、右手に応接セットがあり、三人の男がいて会議をしているように見えた。左手の社長用と思しき広いデスクの背後の椅子には、誰もかけていない。だが、最も奥まった場所にある円形の小さなテーブルの前の椅子に一人の男が座っていた。つまり社長室には四人の男がいたことになる。
 若者は横田の顔を写真で覚えてきたが、念のため聞いた。
「横田さんは、どちらですか」
 円形テーブルに座り、背を向けていた一人が首だけ後ろに回して言った。
「私が横田だが」
 その男は丸顔で蝶ネクタイをしていた。安藤から伝えられていた特徴と一致する。
 殺さずに右腕を撃つよう安藤から命じられていた若者は迷った。横田が左側をこちらに向けているので、右腕が陰になり、をうまく撃つことができないからだ。
 だが若者は咄嗟(とっさ)に思った。
 ――安藤の兄貴は殺さなければよいと言った。
 若者はポケットから銃を取り出すと、一メートルの至近距離で構えた。ソファに腰掛けていた三人は、それを見てすかさずテーブルの下に潜った。
 次の瞬間、銃撃音が轟くと、放たれた弾は横田の左肩に当たった。
「ううっ」という呻き声を発しながら、横田が倒れる。
 若者は血を流して苦しむ横田を確かめると、社長室を飛び出した。その後を追ってきたのは、何と横田本人だった。

 何か騒がしい気配がしたので廊下に出てみると、こちらに向かって横田が走ってきた。
「坂田君、あの男の後を追ってくれ!」
「社長、どうかしたんですか」
「撃たれた」
 横田は左腕を押さえているので、どうやらそこを撃たれたらしい。
「ええっ、それは本当ですか!」
「とにかく行こう!」
 若者は非常階段の位置を確かめていたらしく、ドアを開けて下りていった。それを追おうとしたが、いかにも俊敏そうな若者を追いかけていては、とても間に合わない。
 その時、横田が「早く乗れ」と言って、エレベーターのドアを開けていた。
 それに乗った留吉は、横田の傷を確かめた。
「社長、本当に撃たれたんですか」
「ああ、撃たれた本人がそう言っているんだから本当だ。それよりも奴を捕まえてやる」
 横田の顔は怒りに歪んでいた。
「相手は銃を持っているんですよね」
「逃げる奴は羊も同然だ。恐れることはない」
 横田も中国大陸で兵役に就いていたことがあるので、このあたりの心理の機微には詳しい。
 もどかしい思いで一階に着くのを待っていると、途中の階でドアが開き、誰かが乗ろうとしてきた。しかし血だらけの横田を見て愕然としているので、「早く乗って!」と促したが、乗ってこないので閉じるボタンを押した。しかしそれで随分と時間をロスしてしまった。
 ――追いつくことは、これでほぼ無理か。
 ようやく一階に着き、エレベーターを飛び出してビルの外に出てみたが、若者の姿はなかった。
「社長、見失いました」
 だが振り向くと、横田はビルの階段に腰掛けて息も絶え絶えになっている。
「社長、大丈夫ですか!」
 出血が激しく、横田のワイシャツは真っ赤に染まりつつある。しかも意識が混濁してきたのか、声をかけても応えない。
 留吉は「誰か救急車を呼んでくれ!」と怒鳴るや、自分の着ているシャツを脱ぎ、左腕の上部を強く縛った。
 しばらくすると救急車が到着し、横田は病院に運ばれていった。

 その後、銀座の菊地病院に運ばれた横田に緊急手術が施された。銃弾は左腕の上膊(じょうはく)部から心臓の上部を抜け、肺、胃、腸を貫通して腸の上壁部で止まっていた。横田は千ccの輸血をし、血圧も七十まで下がり、生死の境をさまよった。
その後、奇跡的に命を取り留めた。しかし銃弾の摘出は難しく、そこに残ったままになった。そのため晩年まで、横田は「俺には三つの玉がある」と言って自慢した。
 当初、安藤は自分で撃つつもりでいたが、周囲から止められ、子分の子分にあたる千葉一弘という二十五歳の青年に白羽の矢を立てた。千葉は射撃の腕がいいことで知られていたからだ。
 安藤は千葉に東洋郵船のオフィスの見取り図や横田の写真を見せ、入念に計画を立てた。そして千葉は冷静に命令を遂行し、横田を殺さずに傷つけることに成功した。
 かくして横田は、東洋精糖株買い占めのステージから突然消え、東洋精糖の買収工作の主役は五島慶太へと移っていった。
横田が重傷を負い、意思決定ができなくなったため、横田産業では、横田の持ち株も含めて五島にすべてを託すことにした。
だが、これまでの行きがかり上、横田産業の代表者も必要となり、役員たちから推された留吉が、この件の矢面に立つことになる。
 横田は生死の境をさまよった末、七月まで絶対安静と面会謝絶となった。

夢燈籠 狼を野に放て

Synopsisあらすじ

戦争が終わり、命からがら大陸からの引揚船に乗船した坂田留吉。しかし、焦土と化した日本に戻ってみると、戦後の混乱で親しい人々の安否もわからない。ひとり途方に暮れる留吉の前に現れたのは、あの男だった――。明治から平成へと駆け抜けた男の一代記「夢燈籠」。戦後復興、そして高度成長の日本を舞台に第2部スタート!

Profile著者紹介

1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で第1回本屋が選ぶ時代小説大賞を、『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を受賞。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー