ええじゃないか第五十回 【三河国編・最終回】
権兵衛は天井を見上げた。いや、もう、何も見えていないのかもしれなかった。
「若い頃、わしが調べに当たったのは、この辺りの作柄の調べだった。あの頃は不作でのう。わしは見聞きした惨状を元に、お上が手を差し伸べるべきと報告を書いた。だが、お上は何もせんかった。あの頃は、わしの報告が握り潰されたと思うておったが――。きっと、もう、お上には窮乏を救う気も、その力もありはしなかったのだろう」
目とは哀しい。権兵衛は言った。
「何もできぬ己を恥じながら、ただ眺めているしかないのだ。こんな無惨なことがあろうか。ならば、自らの手で朝顔を育てておるほうが張り合いがあろうよ」
ふと、江戸屋敷の庭に並ぶ、朝顔の鉢植えを思い出した。そして、満開に咲き誇る色とりどりの花の真ん中で、如雨露(じょうろ)片手に歩き回る権兵衛の姿も。あの時父は、どんな表情を浮かべていただろう。
厄介なことに、心のどこかで、市之丞は父の懊悩を理解してしまっていた。権兵衛の抱いた無力感、巨象の目としてだけの役割を与えられる空しさは、調べの間じゅうずっと、痛いほど味わった。目として徹するということは、目の前で何が起こっていても心を凍らせ、手を差し伸べぬことと同義だった。そして、己の持ちうる能力すべてに鍵をかけ、朽ちるに任せるということでもあった。有り体に言って、気が狂いそうだった。
「のう、市之丞」
「いかが、なさいましたか」
「お前は、目のままで終わるか。それとも、目に飽き足らぬようになるか。どちらであろうなあ」
「某は――」
「いい。そのうち、そなたが答えを見つけよ」
それが、権兵衛との最後の会話だった。
三日後、権兵衛は息を引き取った。まるで炭の残り火が消える様を見るような、静かな死だった。父の死を見届けた市之丞は、増多屋主人の助言に従い当地で弔いを済ませ、遺髪と此度の子細を書いた文を母に送ったのち、当地の寺に墓を建てた。
「父上」
市之丞はこれから石の立つ土まんじゅうを前に呆然としていた。
これから、どうすればよいのだろう。
虚脱感に包まれていた。弔いが終わってからも、こうして父の墓前に参っている。
呆然と土まんじゅうを見上げていると、後ろから声がかかった。
振り返ると、お里が立っていた。その辺りの原から花を摘んできたのだろう、手に持っていた野菊を土まんじゅうの上に乗せ、かがみ込んで手を合わせた。
野菊を眺めながら、ああ、と力なく市之丞は息をついた。
「もう、秋なのか」
「そうですね。今年は夏も暑うございましたが、それだけ、秋の色も濃いように思います」
秋風が二人の間を駆け抜け、野菊の花びらを一枚、また一枚と攫っていった。立ち上がったお里は、横鬢の辺りを小指で撫で、風で乱れた髪を直した。
「増多屋に、御公儀(江戸)より新たな沙汰書が参ったそうです」
「そうか」
「おやりになるのですか」
かつてなら、やらぬはずはない、と即答できたはずだった。だが今、市之丞にそう言い張るだけの純粋さは失われていた。
だが今は、武士としての矜持が勝った。
「やる。それが、御庭番――御公儀の目の務めだから」
「そうですか。ならば、これからも、里、力を尽くします」
「頼む」
風に誘われ、市之丞は空を見上げた。
青々とした空には、遠くまで鱗雲が続いている。父上と江戸でこの光景を見上げたのは、いつの時分のことだっただろうか。何度小首をかしげても、どうしても思い出すことが出来なかった。
〈京都編へ続く〉
Synopsisあらすじ
――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。
慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。
慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。
晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。
* * *
江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――
Profile著者紹介
1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある
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