ええじゃないか第三十三回 「おや、青木殿。いかがなさいましたかな」
「おや、青木殿。いかがなさいましたかな」
やけに穏やかな声音だった。だが、晋八にはわかる。初対面の時には一切なかったはずの殺気が、目の前の男から漏れている。しかも、唯の殺気ではない。素人は殺気の形すらも歪だ。しかし、藤井の前身から放たれるそれにはまったくの無駄がなく、練れている。
明らかに、何らかの武術を修めた人間の放つそれだった。
「おめえ、何者だい」
晋八の言葉を、藤井は笑う。
「それはこちらの台詞ですよ。あなたは最初から怪しかった。立ち居振る舞いが田舎芝居を見るようでしたのでね。継飛脚を用いて、御公儀(江戸)に照会したのですよ。吉田家中に御庭番を名乗る男が来ましたが、御庭番を吉田領に放っておるのでしょうかと。御公儀(江戸)の答えは、否でした。つまり、青木某なる男は偽物、ということになる」
晋八は舌を打った。どうやらずいぶん前からネタが割れていたらしい。むかつきが抑えられなかった。思えば初めて会ったあの時、藤井は顔を引きつらせていた。あれは、笑いを堪えていたのだとようやく気付いた。
晋八は刀を引き抜いた。古道具屋で求めた刀は、刀身に赤錆が浮かんでいる。だが、一人の人間を斬り殺すには十分だ。
「斬る」
「はあ、なるほど」
余裕綽々の顔めがけて、遠慮のない突きを放った。
が――。
目にも留まらぬ、とはまさにこのことだった。
甲高い音が辺りに響いた。
辺りに燕が舞った。そう晋八には見えた。
次の瞬間、晋八の目に入ったのは、赤錆の浮かぶ刀身がくるくると虚空で回る姿だった。鍔元で折れているそれは晋八の脇をすり抜け、やがて畳に落ち、刺さった。
卒塔婆のように立ち尽くす刀身と、根元から折れた晋八の刀を見比べ、自然体に立つ藤井は小馬鹿にするように肩をすくめた。
「なるほど、白昼堂々、城に上がり込んでの談判の際にも感じたが――大したくそ度胸だ。だが、度胸だけではどうにもならぬこともある」
「どうかね」晋八は折れた大の刀を捨て、愛刀の長脇差を抜いた。「あんたのそれ、居合いか」
「その通りだ」
いつの間にか、藤井の言葉遣いは乱暴になっていた。
背にびっしょりと汗を掻いている。暑さばかりのせいではない。
「あんた、吉田の人間じゃねえな」
「なぜそう思う」
「あんたの口ぶりには、微妙に江戸の風が混じってる」
すると、藤井は曰くありげに片眉を上げた。
「うむ、まだ化けるのは得意ではないな。その通り。申し遅れた。某は、関東取締出役、藤井太郎左衛門ぞ」
八州廻(はっしゅうまわ)り――。胃の腑が縮み上がる心地がした。
悪党でその名を知らぬは潜りだ。関東八州は旗本地が多く、それゆえにやくざ者や無宿人の跋扈を許していた。そこで、御公儀は文化年間に関東八州での逮捕、追捕権を有した役人を設置、関東の治安回復に努めた。それが関東取締出役、俗に言う、八州廻りである。
だが――。解せぬことがあった。
「八州廻りが、なんで三河にいるんだよ」
三河は関東八州から外れている。ここにいるはずはない。
Synopsisあらすじ
――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。
慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。
慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。
晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。
* * *
江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――
Profile著者紹介
1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある
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