ええじゃないか第四十回 男――、大鉈の正十郎は
男――、大鉈の正十郎は、血のこびりついた大鉈を舐めながら、晋八をその視界に捉え、口を開いた。
「その首、貰うぞ。捨て鉢の晋八。おめえの首には、とんでもねえ額の賞金がかかってるんでな」
正十郎は大鉈を振りかぶる。錆びかかった鉈の刃先が光った。
だが、晋八は、やだよ、と言った。
「おめえとやるのは分が悪い。やりたかねえよ」
まだ、ましらと乙吉は何が起こったのかわかっていないようだった。震える手を刀の柄を強く握ることで誤魔化し、舌を打った後、怒鳴った。
「おめえら、逃げろ」
言うが早いか、斬りかかった。先手必勝。そのまま正十郎と鍔迫り合いの格好になった。
こちらは長脇差、あちらは大鉈。打ち掛かっていったのはこちらなのに、少しずつ、晋八が押し込められている。
背骨が悲鳴を上げ、膝が軋む。
実力差は一目瞭然だった。
巌のように揺るがず、大鉈で晋八の一撃を受け止めたままの正十郎は、短く息をつき、膠着を崩した。
しゃらりと音を立てて晋八の刀を捌いた後、大鉈を振り回す。一撃で命を刈り取らんばかりの一閃が何度も鼻先を掠めた。風切り音の度に肝が縮む。
「やってられねえ」
ましらと乙吉が背を向け境内から逃げ去ろうとしているのを目の端に捉えた晋八は、牽制代わりに刀を一振りした後、足で砂を蹴り上げた。正十郎がたじろぐのを見て取った晋八はくるりと踵を返し、肩に刀を担いで脱兎の如く駆け出した。振り返らなかった。お社を出て、吉田宿の喧噪へと逃げ込む。
しばらくするとましらと乙吉に追いついた。先に口を開いたのは、腕を振り赤い顔で追いついた乙吉だった。というより、ましらは追いつくので精一杯で、口を開く余裕がないように見受けられた。
「おっちゃん、あいつは何なんだい」
「俺の古い馴染みってやつだ」
「おっちゃんの古い馴染みは、鉈を振り下ろすのが挨拶代わりなのかよ」
「そういう稼業で身体を張ってたんだよ」
碌でもないわな――。晋八は自嘲する。
あの男、大鉈の正十郎は、晋八につけられた殺し屋だった。
江戸にいた頃、晋八はあるやくざ一家のもとで草鞋を脱いでいた。その頃、既に晋八は〝捨て鉢の〟の二つ名を持った渡世人だった。その働きぶりが気に入られ、数年に亘り、そのやくざ一家で客人を気取っていた格好だった。どうせ楽旅、水も合った。前歴を問わず、未来を気にする者のない刹那の暮らしは、晋八からすれば居心地のいい塒(ねぐら)だった。さらにいえば、やくざ一家の用心棒という役目は、いざというときにだけ身体を張ればそれでいいだけ、これまた晋八の性分に合っていた。
江戸のやくざ者は苛烈だった。東海道沿いではそれなりに秩序あるやくざ一家も、江戸では毎日どこかで角突き合っていた。晋八も、結局五日に一回は長脇差を抜いていた。
血霞に彩られた日々を過ごしていたある日、晋八はやくざ一家の親分に呼ばれた。屋敷の奥、肩を落としつつ酒を呷る親分は、多くの手下に囲まれながらも孤独の影を引きずっていた。
『先生に、斬って欲しい野郎がいる』
飛び出した名は、案の定、長い間やりあっているやくざ一家の親分だった。
『大将を一本釣りにすりゃ向こうも崩れる。あいつはやっちゃいけねえことをやったんだ。絶対に許さねえ』
一月ほど前、親分の妾宅が襲われた。たまたま親分は難を逃れたが、妾と子が惨殺された。さんざん刀を振り下ろされた顔はぐちゃぐちゃ、身につけているものでようやく血の海に沈んでいる二人の身元が知れたぐらいだったと晋八も聞いていた。そして、そのやり口が、日頃対立するやくざ一家の手管だということも。
『殺してくんな。やり方は問わねえ』
親分は楕円形の紙包みをすっと差し出した。
Synopsisあらすじ
――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。
慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。
慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。
晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。
* * *
江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――
Profile著者紹介
1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある
Newest issue最新話
- 第五十回 【三河国編・最終回】2022.06.02
Backnumberバックナンバー
- 第四十九回 この日の浜松城下は雨が降っていた2022.05.30
- 第四十八回 先に当たった火矢のせいで火が回り2022.05.26
- 第四十七回 晋八の前に立ちはだかった者がいた2022.05.23
- 第四十六回 若い侍に、少女だった2022.05.19
- 第四十五回 少し進むと、遙か遠く2022.05.16
- 第四十四回 「同門のよしみ、ではいかぬか?」2022.05.12
- 第四十三回 帳台の向こう、板敷きの上がり間に2022.05.09
- 第四十二回 「本当に、訳がわからない」2022.05.05
- 第四十一回 その包みを片手で受け取った晋八は2022.05.02
- 第四十回 男――、大鉈の正十郎は2022.04.28
- 第三十九回 さすがのましらも頭を抱えた2022.04.25
- 第三十八回 音がしたのは、境内の方だった2022.04.21
- 第三十七回 「大鉈、ですか」2022.04.18
- 第三十六回 講武所で一時期扇斬りという修練が流行った2022.04.14
- 第三十五回 うなじの辺りを掻き、懊悩の中に2022.04.11
- 第三十四回 すると藤井は、肩をすくめた2022.04.04
- 第三十三回 「おや、青木殿。いかがなさいましたかな」2022.03.31
- 第三十二回 同時に降札騒動が勃発したというより2022.03.28
- 第三十一回 この船頭のような例は多かった2022.03.24
- 第三十回 それは、伊勢外宮御師の内山八郎太夫だった2022.03.21
- 第二十九回 御札を拾い、組頭に届けた者の息子が2022.03.17
- 第二十八回 手の中で羽根をばたつかせ、じじじじじ2022.03.14
- 第二十七回 「何が欲しい」2022.03.10
- 第二十六回 藤井は何かを堪えるような顔をして2022.03.07
- 第二十五回 一階に輪をかけて手入れの行き届かぬ2022.03.03
- 第二十四回 愕然とした。父の言葉に、ではない2022.02.28
- 第二十三回 数日前に行き会った光景について話すと2022.02.17
- 第二十二回 確かに大博打だ2022.02.14
- 第二十一回 晋八は腕を組んで考えた2022.02.10
- 第二十回 王西村で見た臨時の祭りから2022.02.07
- 第十九回 市之丞は筆を置き立ち上がると2022.02.03
- 第十八回 街道筋の安全と整備を図るため2022.01.31
- 第十七回 乙吉の姿が目に入った2022.01.27
- 第十六回 意味がわからなかった2022.01.24
- 第十五回 ふぅん、しみったれた村だね2022.01.20
- 第十四回 「ところで」市之丞は切り出した2022.01.17
- 第十三回 お前は今年でいくつになる2022.01.13
- 第十二回 だが、市之丞の気分は2022.01.10
- 第十一回 ましらが言うには2022.01.06
- 第十回 大博打ってのは2022.01.03
- 第九回 吉田宿は噂通りの大宿場だった2021.12.30
- 第八回 現れたのは、先ほど増多屋の2021.12.27
- 第七回 屋敷に下がり、降された書状を2021.12.23
- 第六回 縁側の下で跪いた少女を2021.12.20
- 第五回 そこに、一人の男が座っていた2021.12.16
- 第四回 本当の名は忘れちまったよ2021.12.13
- 第三回 ここは浜松、夜を徹して歩けば2021.12.09
- 第二回 ずいぶん負けが込んでるね2021.12.06
- 第一回 遠くに三味線の音が聞こえる2021.12.02
- 連載開始告知2021.11.29