ええじゃないか第二十三回 数日前に行き会った光景について話すと
数日前に行き会った光景について話すと、なるほどのう、と権兵衛は口にした。
「どうやら今、吉田ではさらなる大騒ぎになっておるそうなのだ。そなたが見たのは、その端緒となる出来事だったのかもしれぬ。御公儀(江戸)は、なぜこんなことが起こったのかを知りたがっておる」
「はっ、命に代えましても」
市之丞がそう挨拶すると、権兵衛は皺だらけの顔を苦々しげに歪めた。
「のう、市之丞」
「なんでしょう、父上」
「最近の若い者は、どうも生真面目すぎると思うのだ。『命に代えても』なぞ、軽々に述べてはいかぬ」
「何を仰いますか。これは主命ですぞ。主命に命を懸けるのは当然でしょう」
市之丞は気色ばんだ。
講武所においては、徳川への忠誠と、天下への貢献が是とされた。武士たる者強くあるべし、武士たる者主のために戦うべし、武士たる者公のために命を投げ出すべし......。そんな場で涵養された市之丞からすれば、権兵衛と同じ世代の侍の、自分のことが一等大事、のんべんだらりと日々を過ごせればそれでよし、と言わんばかりに振る舞う父には、いささか思うところがある。
市之丞の怒りを前にしても、権兵衛は己の立ち位置を崩すことはなかった。
「そなたの言うこともわかる。だが、こんな小さなお役目のために用いるような言葉ではあるまいよ」
「父上は、お役目に大きい小さいがあると仰いますか」
そんなんだから武士として出世せずに終わるのだ――、そんな本音はかろうじて呑み込んだ。
だが、そんな市之丞の本音が聞こえておるかのように、権兵衛は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「市之丞、お役目には、大小がある。先の長州征伐の際には上席の御庭番たちが当地に入り、地勢や国ぶりを調べて回った。確かにあれは大きなお役目であろう。あるいは、異国人のお目付に当たっている者もおる。攘夷の嵐が吹き荒れる当今、それもまた、大きなお役目であろう。されど、このお役目はどうだ」
反論しようとした。だが、言葉が出てこない。喉が渇く。何度唾を飲み込んでも、何か大きなものが口の奥に詰まっているかのようだった。
その間隙に、権兵衛は言葉を重ねた。
「東海道に沿うた御譜代家中で起こった打ちこわしに、突如村方で巻き起こった不思議な動きぞ。打ちこわしなぞどこにでもある。まあ、村方の御札降り騒動は珍しい動きであろうが、まあ人畜無害よ。お上としても、吉田家中の殿様に注意して終いになる程度のことよ。どんなに我らが調べを進めたところで、吉田家中が改易になることなどあるまい。これを小さな役目と言わずしてなんという」
何度も何度も唾を飲み込んで、ようやく喉のひりつきが解けた。遅ればせながら、市之丞は反論を試みた。
「されど父上、ならばどうして御公儀は吉田を調べるようにと」
江戸と言え、と釘を刺した権兵衛は続けた。驚くほどに穏やかな声だった。
「御公儀(江戸)は――、結局の所、知りたいだけなのだ」
「知りたい、だけ?」
市之丞の鸚鵡返しに、左様、と権兵衛は深く頷いた。その姿には、あまりにも深く、淀んだ疲れがこびりついていた。
「御公儀(江戸)はかつて、天下すべてを睥睨するため、古くは伊賀者、吉宗公の時代には御庭番を置いた。我らは差し詰め、御公儀(江戸)の目であり耳であったのだ。されど、次第に御公儀(江戸)は、天下すべてを治める力を失のうてしもうた。しかし、我らは残った。言うなれば、手や足が失われ、目や耳だけが残っておる。そして今、御公儀(江戸)は、ただ、全国で起こっておることをただ集め、眺めているだけなのだろう。それで何ができるではない。昔の習いで、ただ集めておるだけのことなのだ。そんなことのために命を懸ける必要はない。我らは、御公儀(江戸)の目に過ぎぬのだ」
Synopsisあらすじ
――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。
慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。
慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。
晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。
* * *
江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――
Profile著者紹介
1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある
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