ええじゃないか第十九回 市之丞は筆を置き立ち上がると
市之丞は筆を置き立ち上がると、障子を開いた。この部屋は縁側に面しており、障子を開くと庭を望める。安い旅籠であるからたかが知れてはいるが、疲れた目に松の鮮やかな緑が心地いい。
背伸びをしていると、奥の唐紙から声がかかった。
入ってよい、そう声をかけると唐紙が開いた。
宿場を調べに回っているお里かと思ったが、その予想は外れた。廊下で手を突いていたのは旅籠の女将だった。年の頃三十、掃除をしていたところだったのだろう、ほっかむりにたすきがけをしている女将は、手の文を両手で頭上に掲げた。
「お手紙が参りました」
「ご苦労」
何か言いたげな女将が部屋を後にした後、文を開いた。
父、権兵衛からの手紙だった。
その日の夕方、その日の調べを終えお里が戻ってきた。
「若様、報告はまとまりましたか」
「いや、少し事情が変わったのだ」
「事情、というと」
「此度の打ちこわし騒動とは別に、我らに調べて欲しいことがあるそうだ。だが、文にはその中身は書いていない。浜松で申し伝えるそうだ」
お里は顎に手をやり、難しい顔をした。
「追加調査、ですか。これまで、そうした場合は、他の御庭番を遣わすのが通例なのですが......」
「我らの有能振りを上が買っておるのだろう」
「だといいのですが」
お里は心こもらぬ相槌を打った。
「いずれにしても、お里、そなたは今のまま、とりあえず吉田宿の動向を探って欲しい。某は今日の夜、ここを出立して浜松に戻る」
「明日の朝でも支障ないと思いますが......承知しました」
市之丞は浮かれていた。上に期待されている。己の働きを見てくれている者がいる。そのことに心が弾んでならなかった。それゆえに、お里が浮かべていた複雑極まりない表情を、市之丞は見逃していた。
その日の夜、荷造りを終えた市之丞は、浜松目指し、東海道を下っていった。
けっけっけ、とましらは笑い声を上げつつ、一分金や二分金を畳の上に落とした。一つや二つではない。もはや数を数えるのも面倒だった。これまで、こんなまとまった金を見たことのない晋八は、黄金の放つ黄色い光が眩しくてならなかった。
「くく、こんなに上手く行くたあね」
「本当だぜ」
しんと静まりかえった奥の間で、けたけたと笑い合うましらと晋八の横で、乙吉はぱちぱちと音を立てている。一分金を床にばらまき、おはじき遊びに興じているところだった。真新しい畳の上を滑るように走る一分金は、他の一分金にぶつかり、あらぬ方に飛び、また他の一分金にぶつかった。
そんな三人が逗留するのは、誰も泊まっておらず閑散とした吉田宿の脇本陣だった。さすがは腐っても脇本陣の部屋、八畳間の畳は真新しく青々としており、床の間に置かれた鉄香炉からかぐわしい香りが上がっている。部屋に置かれた調度は洗練されていて、貧乏暮らししかしてこなかった晋八からすれば、気後れすら感じるほどだった。
「しかし、婆、あんた何者だよ。まさか、札を撒くだけでこんな大金に化けさせるなんてよ」
「あたしはましらだよ。賭け狂いのね」
ましらは皺だらけの顔を歪め、楽しげに一分金をいじり回している。
Synopsisあらすじ
――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。
慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。
慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。
晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。
* * *
江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――
Profile著者紹介
1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある
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