ええじゃないか第三十四回 すると藤井は、肩をすくめた

 すると藤井は、肩をすくめた。
「お前には関係なかろうが――。ちと、ある凶状持ちが三河に出たというのでな。特例で追っているところだったのだ。たまたま吉田城に逗留中、怪しげな男がやってきたというので、吉田家中に頼まれて某が応対したわけだ。運がなかったな」
 藤井はにこりと笑った。憎たらしい笑みだった。
「てめえ、ぶっ殺すぞ」
「ふむ、まあ、やってみればよい。だが、あまり手荒に扱いたくはない。叩けば叩くだけ埃が出そうだからな。従い――」
 藤井は手を叩いた。すると、藤井の後ろから、捕物道具を持った男どもが雪崩れ込んできた。
「大人しく、繋がれよ」
 藤井の部下どもが捕物道具を突きつけ、迫ってくる。多勢に無勢、どうしようもなく、晋八は表通りに面した欄干に追い詰められていった。
 どうする、どうする。
 切り結ぶか? いや、ここでやりあってもさすがに負ける。
 となりゃあ――。
 覚悟を決めた晋八の動きは早かった。
 裃を脱いで丸め、それを最前の者に投げつけた晋八は、間髪入れずに踵を返して欄干から跳び、表の道に降り立った。砂利の混じった地面が足裏を容赦なく痛めつけた。だが、痛いと泣き言を言ってはいられない。見れば、逃走を防ぐためだろう、旅籠の出入り口を塞ぐ者たちの姿もあった。
「捕まえよ」
 欄干から身を乗り出すようにして、藤井は檄を飛ばす。その檄を受け、ぽかんとしていた手の者たちも晋八に目を向けた。
 晋八は逃げた。一目散に。
 半月あまりこの宿場に居着いたうちに、地理を頭に叩き込んだ。この宿場は表通りすらくねくねと曲がっており、それゆえか町割も複雑、街道のみならず近隣の村々への道も蜘蛛の巣状に広がっている。逃げ道はいくらでもある。
 頭の上にこの地の地形を思い浮かべつつ、晋八は走った。とにかく走った。

 浜松旅篭町の増多屋に戻った和多田市之丞を待っていたのは、文書での叱責だった。
 なんでも、御庭番が嗅ぎ回っていることが吉田家中に露見したかもしれぬという。
 権兵衛は弱り顔で、御公儀からやってきた文に目を落としていた。
「なんでも、吉田城に御庭番を名乗る男が押しかけ、暗に賄(まいない)を求めてきたらしい。たまたま城には御公儀の役人がおり、それで話が終わったらしいが――。まさか、そなたらの仕業ではあるまいな」
「心外です」市之丞は己の胸を叩いた。「この和多田市之丞、お役目を笠に着て賄を求めるなどという恥知らずなことは致しませぬ」
 各大名家の動向調査は、かつては大目付が担っていた。しかし、この者たちが腐敗し、巡回が儀礼めいたものとなってしまったがゆえ、御庭番が置かれたのである。その故事から、御庭番の者たちは「身を清く保つべし」を合い言葉に日々の役目をこなしている。それは、新人である市之丞も例外ではない。
「御公儀(江戸)は御庭番を放(はな)っておらぬと答えたようだが、上は気を揉んでおるぞ。火のないところに煙は立たぬというでな」
「それは、どういう」
「たとえば、ぞ。そなたらが目立ったせいで『御庭番が吉田に入った』と噂が立ち、それを悪党が利用した虞(おそれ)がある。目立たぬよう努めたろうな」
「無論でございます」
 調べの際には、わざわざ古着屋で買った、蚤だらけのぼろに身を包んだ。大小も宿に預け、やはり同じくぼろ姿のお里同様、目立たぬようにしていたはずだった。
 お里も言い添えた。
「若様が隠密に務めてらしたのは、この里も証立ていたします」
「うむ。御用町人のそなたが言うなら、そうなのだろうな。――だが、それで上が納得するものかどうか......」

ええじゃないか

山本祥子

Synopsisあらすじ

――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。



慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。

慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。



晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。



* * *



江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――

Profile著者紹介

1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある

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