ええじゃないか第四十八回 先に当たった火矢のせいで火が回り

 先に当たった火矢のせいで火が回り、桟橋はすっかり炎上していた。轟々と音を立てて燃える桟橋からは、焼け屑が落ち、ところどころで湯気を上げている。ましらたちの乗る猪牙舟は桟橋の奥でなお留まり、火に照らされる猪牙舟の上の人影が、早く来いと手招きしている。
 行きたいのはやまやまだったが、そうもいかない。海の上に続くそれは、まるで火の橋だった。
 後ろから藤井の手の者が迫り、火矢をこちらに向けている。
 猶予も、逃げ場もない。
「ちくしょうが。渡るっきゃねえじゃんかよ」
 頬を叩き、僅かばかり残っている怯懦を追い出し、晋八は桟橋の上を駆けた。
 みしみしと踏み板が軋む。
 熱を足裏に感じる。
 柱が折れ、桟橋が崩れる。
 煽り立てるように燃えさかる炎が、晋八の肌を撫でる。
 髪の焼ける臭いが晋八の鼻をつく。
 汗が煮え立ち、湯気に変わる。
 息ができない。
 二十間ほどの桟橋が恐ろしく長く感じる。
 ふと、火と煙の橋の上を全力で駆けながら、晋八は考える。
 なぜ、俺はこんなにしゃかりきになっているのだろう、と。
 俺は、捨て鉢の晋八だぞ? その俺が、どうして、こんなに必死こいて生きようとしているんだろう。
 わからない。
 だが、渡った先に答えがあるかもしれない。
 そんなことを思いながら、ついに晋八は火の橋を渡り切り、猪牙舟に飛び込んだ。
 その拍子に舟が大揺れし、あわやひっくり返りそうになるほどに揺れた。
「何すんだい。もし落ちたらどうする気なんだ。あんたと心中するつもりはないよ」
「っていいつつ、舟を出したいって言ってた鯨を押し留めてたの、ましらじゃないか」
「あんた、ずいぶん口数が増えたね。可愛くなくなっちまったよ」
「たぶん、おっちゃんのせいだな」
 そんなやりとりが耳に飛び込んできたその時、ああそうか、俺にはいつの間にか居場所ができていたのか、ふと、そんなことに晋八は気づいた。
 岸に残された手の者が、次々に火矢を放ってくる。届かなくなるまで、晋八はそのことごとくを舟の上で撃ち落とした。
「きれいだな」
 乙吉は目を輝かせ、そう言った。見ようによっては、岸から放たれるおびただしい数の火矢は、火の雨のようだった。

 体中に残る打撲の痛みに苛まれつつ、和多田市之丞は浜松城下を歩いていた。水溜まりを踏み、水しぶきが上がるのにも構っている余裕はなかった。
「痛て」
 思わず声が出た。すると、お里が市之丞の顔を覗き込んできた。
「大丈夫ですか、若様」
「なんだ、いつものお里らしくないじゃないか」
「わたしのせいで若様に怪我をさせてしまったようなものですから」
 お里は顔を伏せた。
 あの大捕物の際、お里を守るために市之丞は怪我を負った。お里はそれを気に病んでいるらしい。
 実は、ちょっとした誤解もあった。お里は武術にも長けているのだろう、そんな漠然とした思い込みだった。後で話を聞けば、御用町人は風聞を集めるのがその役目であるからして、自ら捕物に手を染めることはないし、危ない橋を渡ることもしないという。
 市之丞はあえて明るい声を発した。
「二人ともこうしてぴんぴんしているんだから、もうそれでいいだろう」
 口ではそう言ったが、市之丞は内心忸怩たる思いだった。己の剣が通じなかった。己の唯一の取り柄すら、この広い天下にあっては意味のないものだと思い知らされ、己の軸が揺るがされたような衝撃を受けた。
 唸りつつ、市之丞は浜松の町を早足で進んだ。

ええじゃないか

山本祥子

Synopsisあらすじ

――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。



慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。

慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。



晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。



* * *



江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――

Profile著者紹介

1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある

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