ええじゃないか第二十九回 御札を拾い、組頭に届けた者の息子が
御札を拾い、組頭に届けた者の息子が、十四日の夜に急死した。特に病にかかっていたわけではなく、壮健な子供であっただけに、その死は村でも驚かれたという。
死者はそれだけでなかった。王西村に住む力士のとこなべという男の妻が、十五日、狂を発して死んだのである。とこなべの妻は十三日に病の床についたらしいのだが、十五日になって容態が悪化、そのまま急に息を引き取ったのだという。
子供にしても女にしても、人は容易く死ぬものだ。だが、この二人の死が、降札騒動に油を注ぐことになった。
十四日の夕方、とこなべは懇意にしている村人と酒を酌み交わしていた。その際、こううそぶいていたのである。
「今日降ったとかいう御札には煤がかかっていたらしいじゃねえか。差し詰め、誰かがいたずらで撒いたんだろうよ。あんまりぴいぴい騒ぐもんじゃねえぜ」
とこなべの嬶(かかあ)が死んだのは、あいつが神さんを怒らせたからなんじゃ――。
そういえば、最初に御札を拾った家でも、男の子が死んだらしいぞ――。
村人たちが神罰かと噂し合う十五日夕方、王西村の牛頭(ごず)天王社に、磯部伊雑皇太神宮の札が降った。これが最後の一押しとなり、村は大規模な臨時祭を行なうことに決めたのであった。
ここまで調べ上げた二人は、牟呂にある牟呂八幡宮でしばらくの休みを取ることにした。
牟呂の集落の真ん中にある八幡宮は古木がいくつも建ち並ぶ、かなり広い神社だった。真新しい注連縄や大きな鳥居、整えられた参道からは当地の人々の尊崇のほどが見て取れる。熱い風が吹き抜け、境内を取り囲むように並ぶ梅や松の木を揺らしていく。
誰も居ない境内の隅に置かれた大岩に腰をかけた市之丞は、顎に溜まる汗を手ぬぐいで拭き、同じく近くの切り株に腰を下ろしたお里に話しかけた。
「どうやら、王西村の子供と、力士とこなべの妻の急死が、御札を恐れさせるきっかけになったみたいだな」
「あの二人の死は偶然のようですね。むろん、殺された形跡はなかった」
聞き込みをしている際、まさか殺されたのでは、とお里が切り出し、村人が驚いて反駁する様子を思い出した。そんなわけないだろう! あの二人を殺すなんて。誰もが芋判で押したように、同じ反応をした。
顔の汗を拭くお里は、付言するなら、と切り出した。
「御鍬百年祭りの年であったということも関わっているようですね」
「なんだそれは」
「磯部の伊雑皇太神宮の祭礼のことです。その名の通り、百年に一度行なわれる、豊作を願うお祭りです」
「そんな祭りがあったのか」
「どうやら、牟呂村は七月十六日頃から御鍬百年祭りを開くつもりだったようですが、近隣の村の中には、取りやめを決めたところもあったようで」
「祭りを取りやめ? 穏やかではないな」
「はい。昨年はこの辺りも不作でした。さらに、度重なる助郷で村はすっかり困窮しています。祭りを開く余力もない、というのが、村の乙名衆の本音でしょう」
江戸生まれ、江戸育ちの市之丞にとってみれば、祭りは日々の暮らしの添え花である。神田祭、山王祭に深川祭。他にも神明宮のだらだら祭や浅草三社祭を今や遅しと待ち構える江戸っ子は数多い。
もし中止となろうものなら――。市之丞とて怒るかもしれない。
「こうは考えられないでしょうか」お里は両掌を膝の上で広げた。「伊雑皇太神宮の札は、御鍬百年祭りが開かれぬかもしれないと危ぶんだ誰かが撒いたのではないでしょうか」
「筋は通っているな。だが、十五日夕方の札については説明がつくが、端緒となった十四日の降札については理屈がつかぬのではないか」
「仰るとおりです。十四日に降ったのは伊勢外宮の札です。伊雑皇太神宮のものではありませぬ。――もしかすると、十四日に札を撒いた人物と、十五日に札を撒いた人物は別人なのかもしれません」
「なるほど。ありうるな」
その線は見事に的中する。
十四日、牟呂村に伊勢外宮の札を撒いた人物が見つかったのである。
Synopsisあらすじ
――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。
慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。
慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。
晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。
* * *
江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――
Profile著者紹介
1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある
Newest issue最新話
- 第五十回 【三河国編・最終回】2022.06.02
Backnumberバックナンバー
- 第四十九回 この日の浜松城下は雨が降っていた2022.05.30
- 第四十八回 先に当たった火矢のせいで火が回り2022.05.26
- 第四十七回 晋八の前に立ちはだかった者がいた2022.05.23
- 第四十六回 若い侍に、少女だった2022.05.19
- 第四十五回 少し進むと、遙か遠く2022.05.16
- 第四十四回 「同門のよしみ、ではいかぬか?」2022.05.12
- 第四十三回 帳台の向こう、板敷きの上がり間に2022.05.09
- 第四十二回 「本当に、訳がわからない」2022.05.05
- 第四十一回 その包みを片手で受け取った晋八は2022.05.02
- 第四十回 男――、大鉈の正十郎は2022.04.28
- 第三十九回 さすがのましらも頭を抱えた2022.04.25
- 第三十八回 音がしたのは、境内の方だった2022.04.21
- 第三十七回 「大鉈、ですか」2022.04.18
- 第三十六回 講武所で一時期扇斬りという修練が流行った2022.04.14
- 第三十五回 うなじの辺りを掻き、懊悩の中に2022.04.11
- 第三十四回 すると藤井は、肩をすくめた2022.04.04
- 第三十三回 「おや、青木殿。いかがなさいましたかな」2022.03.31
- 第三十二回 同時に降札騒動が勃発したというより2022.03.28
- 第三十一回 この船頭のような例は多かった2022.03.24
- 第三十回 それは、伊勢外宮御師の内山八郎太夫だった2022.03.21
- 第二十九回 御札を拾い、組頭に届けた者の息子が2022.03.17
- 第二十八回 手の中で羽根をばたつかせ、じじじじじ2022.03.14
- 第二十七回 「何が欲しい」2022.03.10
- 第二十六回 藤井は何かを堪えるような顔をして2022.03.07
- 第二十五回 一階に輪をかけて手入れの行き届かぬ2022.03.03
- 第二十四回 愕然とした。父の言葉に、ではない2022.02.28
- 第二十三回 数日前に行き会った光景について話すと2022.02.17
- 第二十二回 確かに大博打だ2022.02.14
- 第二十一回 晋八は腕を組んで考えた2022.02.10
- 第二十回 王西村で見た臨時の祭りから2022.02.07
- 第十九回 市之丞は筆を置き立ち上がると2022.02.03
- 第十八回 街道筋の安全と整備を図るため2022.01.31
- 第十七回 乙吉の姿が目に入った2022.01.27
- 第十六回 意味がわからなかった2022.01.24
- 第十五回 ふぅん、しみったれた村だね2022.01.20
- 第十四回 「ところで」市之丞は切り出した2022.01.17
- 第十三回 お前は今年でいくつになる2022.01.13
- 第十二回 だが、市之丞の気分は2022.01.10
- 第十一回 ましらが言うには2022.01.06
- 第十回 大博打ってのは2022.01.03
- 第九回 吉田宿は噂通りの大宿場だった2021.12.30
- 第八回 現れたのは、先ほど増多屋の2021.12.27
- 第七回 屋敷に下がり、降された書状を2021.12.23
- 第六回 縁側の下で跪いた少女を2021.12.20
- 第五回 そこに、一人の男が座っていた2021.12.16
- 第四回 本当の名は忘れちまったよ2021.12.13
- 第三回 ここは浜松、夜を徹して歩けば2021.12.09
- 第二回 ずいぶん負けが込んでるね2021.12.06
- 第一回 遠くに三味線の音が聞こえる2021.12.02
- 連載開始告知2021.11.29