ええじゃないか第二十七回 「何が欲しい」
「何が欲しい」
そう聞くと、ややあって乙吉は答えた。
「蝉」
「ああ? いや、金があるんだ。金で買えるものにしてくれよ」
だが、乙吉は、蝉が欲しい、の一点張りだった。
「おっ父と捕ったんだ。昔」
哀しげに言われたのに負け、結局蝉捕りに行くことにした。
本題である買い物も忘れない。表通りから一本入ったところにある道具屋で虫捕り用の網と虫籠を求めた。持ち合わせがなく小判で支払ったところ、店主は腰を抜かさんばかりに驚いて、しばらく奥に消えたと思ったら薄汚れた一分金や銭でお釣りをくれた。
買ったばかりの網と籠を渡し、晋八は乙吉の頭を撫でた。
「物には値がある。で、同じ値の金と交換できるんだ。もしこっちが同じ値の金を持ってなかったら何も売ってもらえねえし、こちらが沢山金を持っていたら、物の値を差し引いた分の金が戻される。これが釣り銭だな。いいか、金ってのはこうやって使うんだぜ」
ない頭を絞って説明したのに、どうやら乙吉はまともに話を聞いていないようだった。新品の籠と網を手に、目をらんらんと輝かせている。
「ありがとう、おっちゃん」
「お、おっちゃん」
お兄さんと呼ばれたかった気がしないでもないが、今年で三十六になる。明日をも知れぬ稼業で身体を張るうち、自分がいい年した大人になっていたことを、今になって突きつけられた気がした。
気を取り直して、蝉の捕れそうな処を探した。しばらく街道筋を歩くとすぐに見つかった。東海道から少し入ったところに、小さな森が見えた。辻を曲がって向かうと果たしてそこは小さな神社だった。境内は小さいようだが、町中とは思えぬほど大きな杉の木がいくつも立っている。中に足を踏み入れると蝉時雨が晋八たちを迎えた。
乙吉は、わあ、と声を上げ、虫捕り網を振り回した。まるで、何かの舞を見るようだった。だが、一向に捕れる様子がない。蝉とて捕まりたくはないのだろう。虫捕り網がかかりそうになる直前に飛び立ち、小便を乙吉に引っかけ、飛んで行ってしまう。
乙吉は、ぐぬう、と唸りながら、空を睨んだ。
「下手くそだなあ」
その辺の切り株に腰を下ろした晋八がそう言うと、乙吉は言い訳がましく言った。
「いつも、お父が捕ってくれたんだ」
「お父は、捕り方を教えてくれなかったのか」
「教えてくれるって約束してたのに、コロリで死んだから」
晋八の口から、ああ、とも、おう、ともつかない声が出た。
安政からこの方、幾度となくコロリは流行し、その度に人が死んでは多くの家が潰れている。日本津々浦々、どこででも耳にする話ではあったが、だからといって際したときの居心地の悪さに慣れることはない。
のしかかってくる気まずさに背中を押され、晋八は立ち上がった。
「しょうがねえな、俺が教えてやらあ」
「ほんと」
乙吉は目を輝かせ、虫捕り網を差し出してきたが、晋八は網を受け取らなかった。
「素手でもいけらあ」
木の前に立った。ちょうど晋八の胸の高さのところで、蝉がやかましい恋歌を口ずさんでいた。じっとその様子を眺める。歌に夢中でこちらに気づいている様子はない。
晋八は腕をさっと伸ばし、蝉を捕らえた。
Synopsisあらすじ
――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。
慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。
慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。
晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。
* * *
江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――
Profile著者紹介
1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある
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