ええじゃないか第二十六回 藤井は何かを堪えるような顔をして
藤井は何かを堪えるような顔をして、頭を下げた。
「それは恐縮の極み。まことに面目ない次第にて」
「この三月四月に起こった打ちこわし騒動、さらに、村方の御札降り騒動、そのすべてが吉田領内で起こっておる。これを、どうお考えであるか」
藤井は額を床にこすりつけた。だが、不思議と動揺の色はない。
「まことに、申し訳ありませぬ次第で。我ら家中一同力を尽くしておりますが、今ひとつ、験を上げませぬので」
いやに藤井の口吻が落ち着いている気がしないでもなかったが、武士が己に頭を下げていることに、晋八は浮かれに浮かれていた。予定通り、用意していた口上を藤井の頭に投げやった。
「役儀上、御家中の様子を伝えねばならぬ。されど、御家中の苦衷、某も十分理解しておるつもりでござる。それゆえ――」
「なるほど、左様でございますか」
藤井は早かった。懐から小判を一枚取り、晋八に握らせた。面倒ごとは金で解決、という、田舎役人らしいやり口だった。だがなぜか藤井の口角は上がり、なおも震えていた。
「こちらをまずはお収めくだされ。念のため申し上げますれば、こちらはあくまで手付けでございます。これより、金蔵を開けまして路銀をお届けいたしたく思うております。逗留に用いておられる宿をお教えくだされ」
かくして、しめて百両を届けさせる約束を取り付けたのである。
話の一部始終を聞いたましらは、膝を叩いて喜んだ。
「やるじゃないか。あんたの度胸、やっぱり大したもんだねえ。城に乗り込んで、武士を向こうに丁々発止とはねえ」
「まあな」
江戸にいた頃、その度胸と〝捨て鉢の〟の二つ名を買われて何度も修羅場を潜った晋八からすれば、城でのやりとりなんぞものの数に入らなかった。むしろ、芝居の真似事をしていればそれでよかっただけ、楽と言えば楽だった。
「おい婆。そういや、藤井から貰った手付、どうしたらいい」
「ああ? そんなもん、あたしゃいらないよ。これから百両が手に入るんだからね」
「そうかい、なら」
晋八は小判を懐から取り上げると、畳の上でおはじきを続ける乙吉の前に投げ遣った。乙吉の目の前に落ちた小判は、おはじきのいくつかを弾き飛ばした。それが不服だったのか、乙吉は、
「何すんだ」
と金切り声を上げる。
「くれてやるよ」
そう言っても納得しなかった。
「こんなでかいもんじゃ、遊べないじゃないか」
乙吉は、一分金をねだった。
「なんでえ、お前、金の値を知らねえのかよ」
呆れ声を発した晋八は、小判を拾い上げると乙吉の手を引き、戸を開いた。
「ちと出かけてくるぜ」
「ああ、行ってらっしゃい。夜までには戻ってくるんだよ」
「おめえはおっ母か」
吐き捨てて、乙吉とともに部屋を出、町に飛び出した。
人通りのない表通りでは蝉が下手な歌をがなり立て、陽炎が遠くの風景を歪ませている。用事がなければ表になど絶対に出たくない、生気を奪う暑さだった。
強烈極まりない日差しの下で、晋八は乙吉を見下ろした。この暑いというのに、乙吉は涼しげな顔をしている。肌も透けるように白い。もしもう少し小綺麗にすれば、女の子でも通りそうな顔立ちをしている。
Synopsisあらすじ
――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。
慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。
慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。
晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。
* * *
江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――
Profile著者紹介
1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある
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