ええじゃないか第四十九回 この日の浜松城下は雨が降っていた

 この日の浜松城下は雨が降っていた。だが、以前より街は騒がしい。しとしとと降りしきる雨の中、花笠を被り、着物の裾をからげた二十人ほどの男女が道の真ん中で踊り、肩をぶつけ合って歓喜の声を上げている。
 ちらりとその様を一瞥すると、笠の縁を下げたお里が口を開いた。
「吉田宿での降札騒動が、他の宿場にも広がっているようです。秋葉山巡礼が盛んになるに従い、浜松にも巡礼者が増え、吉田での騒動を耳にした者が真似をしたのでしょう」
「みたいだな」
 上の空で市之丞は答えた。
 浜松旅篭町にある増多屋に戻った。笠を取り、足を洗ったのもそこそこに、足音立てて奥の部屋へと向かう。
「父上!」
 戸を開くと、部屋の中では、父、権兵衛が寝かされていた。
 枕元に水盥が置かれ、手ぬぐいが浸してある。父は髷すら解かれ、寝間着姿で浅い息をついていた。これは本当に父なのかと疑いたくなるほど、権兵衛は縮んでいる。この前言葉を交わしたのがひと月前だった。短い間にこんなにも人相が変わるのか、そう驚いた。
「父上」
 枕元でもう一度語りかけると、ようやく権兵衛は目を開いた。
「......おお、市之丞か」
「父上、戻りました。いつから、お悪いのですか」
 権兵衛は、さあて、と笑った。
「この歳になると、身体の調子が優れぬのが普通になってしもうてな。まあ、もっとも、あまり無理はするなと医者からは言われておったが」
 どうやら権兵衛は、かれこれ五年前から体調を崩していたらしい。
 知らなかった。そして、驚きもした。「これは命を懸けるべきお役目か」と息子に問いかけていた権兵衛は、己の身体が悪いことを知りつつ、役目を辞退しなかったことになる。
 権兵衛は、市之丞の右頬に、枯れ木のような腕を伸ばし、撫でた。
「怪我を、しておるか」
「ああ、まあ」
 藤井太郎左衛門とともに当たった捕物で、御庭番を僭称する男をすんでのところで取り逃がした。いや、本当は「すんで」などと言えるものではなかったが、己の恥をほじくり返して悶絶する必要もない。
 あの捕物の直後、浜松から危急の連絡があった。
 権兵衛殿危篤、早く戻られるべし。
 そんな、増多屋主人からの伝言だった。
 連絡を受け取った市之丞は、後始末を藤井に頼み、一路、浜松へと戻ったのであった。
 権兵衛は顔をしかめ、晋八の頭を小突いた。だが、その節くれ立った拳には力が籠もっていなかった。
「怪我は、面白くないぞ。お役目で無理をするな」
「されど父上、お言葉なれど我らは武士。武士たるもの、主家のために身を捧げるが身上では」
「我らは――。先にも言うたが、主家の目よ。目は、見ることしか出来ん。我らは結局、眺めておるしかないのだ。あるいはわしは、己の役儀のそんなところに、失望しておったのだろうなあ」
「父上?」

ええじゃないか

山本祥子

Synopsisあらすじ

――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。



慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。

慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。



晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。



* * *



江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――

Profile著者紹介

1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー