ええじゃないか第四十五回 少し進むと、遙か遠く
少し進むと、遙か遠く、海岸線に沿って、小さな灯りが見え始めた。目を凝らし見てみると、岩場の間にある小さな平坦地に、三軒ほどの小屋、もとい家々が立ち並んでいる。牡蠣殻葺きのその家は、大きな風にまくられたらすぐに屋根が飛んでいってしまいそうなほどに華奢だった。その家の傍らには桟橋が設けてあり、その先には猪牙舟が三つ、繋ぎ留められていた。
その家の一つに近づいたましらは戸を叩いた。
中から、老人がぬうと姿を現した。
袖のない粗末な法被を下帯一つの裸に着たその老人は、肌こそ皺だらけだったが、その黒く焼けた肌の下に覗く筋肉は男の晋八でも惚れ惚れするほどに鍛え抜かれていた。もっとも、左胸の辺りに古い刀傷が走っている辺り堅気ではないのだろうが、海とずっと格闘し続けた男ならではの、岩壁の如き気配が全身から漂っていた。
「おう、ましらか、久しいな。よう来た。入れ」
老人に言われるがまま、小屋に入った。
中はこざっぱりとしていた。小屋の中は土間の一間で、古ぼけた畳が四枚敷いてあるばかりだった。部屋の隅には折れた櫓(ろ)や壊れた船の部品が乱雑に置かれているばかりで、生活の呼吸を感じることができなかった。
ましらは老人の肩を叩いた。
「紹介するよ、こいつは鯨(くじら)」
「鯨ァ?」
「もちろん本当の名前じゃないよ。悪党さ」
ましらが言うには、この老人、鯨は、往来船の鑑札を持たぬもぐりの船頭なのだという。ここの他にもいくつも根城を持っていて、当局の追及を躱し続けながら、表では運べぬ荷を請け負って生計を立てている。
ましらは鯨の盛り上がった肩を何度も叩いた。
「この爺さんに任せりゃ安心さ」
「あんたには、いくつも借りがあるからな」
鯨はその強面をしぼませた。
いつ船が出せる? ましらの問いに、鯨は答えた。
「そうさな、明日の朝だろう。今日はちと海が荒れてる。いくら駿河湾を行くとはいえ、この風の中こぎ出すのはちとまずい。あんたらも、海の藻屑にはなりたかねえだろう」
「まあ、そうだねえ。待つしかない。二人とも、少し寝な」
ましらの言葉に甘えることにした。畳の上に寝そべり、手を頭の後ろに回し目を閉じた。そうしてしばらく頭を空っぽにするうちに、ぽっかりと穴を開いた洞穴のごとき眠りに落ちていった。ふわふわとした心地の中しばし身を泳がせ、深き闇の中に沈もうとしていたそんな時分、突然その静寂が破られた。
「火事だ」
「ちくしょう、火攻めなんてありか」
身を起こした。
そこは既に修羅場になっていた。天井に火が回り始め、小屋の中は煙が満ち始めていた。横を見れば、寝ぼけ眼の乙吉が、言葉にならない言葉を口から吐き出している。
乙吉を右腕で抱え、小屋から飛び出した。
外は外でまずいことになっていた。
ましらと鯨は口元を曲げて両手を上げている。その二人の視線に己の目を沿わせると、人魂のような灯火が等間隔に並ぶ少し先の岩場の上に、火に照らされて立つ、一人の男の姿を認めた。黒羽織に鼠色の袴。そして、申し訳程度に剃っただけの月代。見間違えるはずはなかった。吉田城で出逢い、晋八に一杯食わせた――藤井だった。
「野郎」
思わず晋八は歯噛みした。
一方の藤井は余裕綽々に顎に手をやっている。
「ふむ。先にお前たちを見つけたか。まあいい。そのうちあっちも見つかろう。――おい、市之丞。ここまでお膳立てしたのだ。お前の手で捕まえよ」
藤井の後ろから、二つの影が現れた。
Synopsisあらすじ
――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。
慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。
慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。
晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。
* * *
江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――
Profile著者紹介
1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある
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