ええじゃないか第二十五回 一階に輪をかけて手入れの行き届かぬ
一階に輪をかけて手入れの行き届かぬ二階廊下をしばし歩き、奥の部屋の戸を開いた。
南向きの八畳間、黄色く変じ、ぶよぶよになった畳の上には、つまらなそうに一分金でおはじきをしている乙吉と、部屋の隅で徳利に直截口をつけるましらの姿があった。晋八の姿を見るや、ましらはげらげらと笑った。
「なんだよ、婆。人の顔を見て笑うんじゃねえよ」
「馬子にも衣装、って言葉を思い出しちまってね」
「うるせえや。俺が一番わかってるよ」
そもそも、この裃を選んだのは、他ならぬましらだった。
宿場の隅にひっそりと建っていた古道具屋に引きずり込まれ、旅芸人が使っていたと思しき裃をいくつか合わせ、「まあこれなら見栄えもするわいな」と与えられたのがこれだった。
即座に裃を脱ぎ捨て、畳に投げつけた。
「こちとら冷や汗もんな仕事をした帰りだってのに、酒飲んでるたあいいご身分だな、婆」
「なんだ、飲みたいのかい」
徳利から口を離し、こちらに差し出した。徳利の注ぎ口からましらの口まで、糸を引いていた。酒は好物だが、遠慮した。
なんだいつれないね、と口にし、耳に障る笑い声を上げたましらは、酒をまた呷ってから、鋭い視線をこちらにくれた。
「で、上手く行ったのかい」
「おう、それなりに、な」
晋八が任されたのは、吉田城への揺さぶりだった。
拙者、憚りながら江戸御庭番の青木輔右衛門でござる。
吉田城の門前で、そう名乗った。ましらや乙吉は留守番だった。御庭番に化けるにあたり、老婆と子供は余計だった。
最初、何を言われたのかわかっておらぬ様子の門番に、懐に収めていた三つ折りの文を思わせぶりにちらと見せた。それを見た門番たちは何かの御免状なのだろうと早合点した様子で顔を見合わせ、奥に消えていった。そうしてややあって、晋八は城の中に通された。
曲輪の奥にある屋敷の一室、客の控え間と思しき八畳間でしばし待っていると、ややあって、年の頃二十ほどの男が戸を開いた。線が細く、肌の肌理も細かい。紺色の裃が嫌に似合う、覇気がない若造だった。万事につけ特徴のない男だったが、申し訳程度にしか剃られていない月代が印象に残った。昨今江戸の若い侍の間で流行している、なんとかという月代だった。
その侍は、吉田家中公用方の藤井を名乗った。
「御庭番の方がお越しとは、遠路はるばる、お役目、ご苦労様でございます」
恭しく頭を下げた藤井は、いきなり本題に入った。
「ところで、御庭番の方が一体何用でこちらに」
こちらを疑う様子は微塵もない。晋八は用意していた口上をそのまま述べた。
「ここのところ、吉田領内では騒擾が絶えぬ様子。お上は大変御憂慮しておられる。此度、某がここに遣わされたのも、家中の政に傷があるのではとのご心配によるものである」
口調や立ち居振る舞いは、田舎芝居仕込みだった。武家との関わりのない晋八からすれば、秋祭りごとに観る旅芸人一座の芝居が、武家の礼儀作法を真似る際に参考になる、ほぼ唯一のものだった。
Synopsisあらすじ
――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。
慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。
慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。
晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。
* * *
江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――
Profile著者紹介
1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある
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