ええじゃないか第七回 屋敷に下がり、降された書状を
屋敷に下がり、降された書状を親子で読み上げた。
「なるほどのう、吉田宿の騒動について調べてこいというわけか」
書状から顔を上げて目を揉み、庭先に居並ぶ朝顔の鉢を眺めた権兵衛は、おっくうげに息をついた。
三河吉田宿。東海道沿い、浜松と名古屋の中間地点にある宿場町で、浜名湖の北を回る姫街道とも接続している。すぐ傍に豊川が流れていることもあって陸運、水運の盛んな処だ。西三河の中では浜松と並ぶ要衝であり、それゆえにこの地では代々譜代大名が睨みを利かせてきた。今は奏者番や大坂城代を歴任した大河内松平家の松平刑部大輔信古(のぶひさ)が治めている。
だが、その吉田の地に暗雲が垂れ込めているらしい。
慶応三年三月、吉田領内の西にある村方四十五ヶ村の住民三千人あまりが集結し、村名主の家を打ちこわした。その一団は各村の村名主屋敷を薙ぎ払いながら進み、いよいよ吉田宿にまで迫らんばかりの勢いとなった。この時は結局豊川にかかる天下の大橋、豊川大橋を渡ることはなく解散したものの、四月、また同様の打ちこわしが繰り返された。
市之丞たちに降ったのは、この打ちこわし事件の調査だった。
「吉田は東海道上にある。この地が世上不安定では、色々の差し障りがあるからのう」
御庭番が忍び働きを拝命した場合、即座に旅立つのが決まりとなっている。市之丞も講武所で知り合った仲間に挨拶も出来ぬままの出立となった。
お土産を買ってきてくださいね、という、母の間抜けた言葉に見送られながら――。
〇
そう。大事なお役目を帯び、浜松までやってきたのである。
それだけに、父の態度が気に食わなかった。
「いいのですか。これは千載一遇の機ですぞ。我ら分家和多田家にとって、今回のお役目はまさに悲願。このお役目を階(きざはし)に、家名を上げぬことには初代様に顔向けできませぬ」
分家和多田家からすれば、このお役目は久々の忍び働きとなる。
数代前に出た初代様の働きが認められて本家から分かれた分家和多田家は、後に続く人物に恵まれぬきらいがあった。曾祖父も祖父も、生涯を通じて忍び働きを命じられたことはなかった。二人とも茫洋としていて、とても忍び働きの出来る気性ではなかったからという。曾祖父の記憶はないが、確かに祖父は、非番の日には日がな一日堀で竿を振り、沙魚(はぜ)が大漁だったわいと喜んでいた、覇気の欠片もないお人だった。
そういう意味では、父、権兵衛はまだましだった。若かりし頃、忍び働きを拝命したのである。しかし、その一度きり声がかかることはなかった。初めての忍び働きの際、勤め振りがよろしくない者には二度と役儀を任されることはないという。父はかつて何か大きなしくじりを犯したのだろう、市之丞はそう見ている。
ならば、今回のお役目は臥薪嘗胆、汚名返上の時ではないか。
勢い、市之丞の口吻は鋭くなる。
「父上、ここはなんとしても、大功を上げましょうぞ。それこそ、吉田家中の手落ちを見つけ、御公儀にご注進を」
「はは、そんなことをすれば立ち行かなくなるのは我らぞ」
権兵衛はうつろに笑い、からころと咳をした。
立ち行かなくなるのは我ら?
言葉の意味を問い質したかった。だが、庭先の枝折戸が音を立てて開いたことで、会話はうやむやのうちに打ち切られた。
Synopsisあらすじ
――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。
慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。
慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。
晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。
* * *
江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――
Profile著者紹介
1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある
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