ええじゃないか第三回 ここは浜松、夜を徹して歩けば

 ここは浜松、夜を徹して歩けばかなり距離を稼ぐことも出来るだろう......、辺りの絵図面を思い浮かべつつ大足で薄原を掻き分けていると、老婆、そしてその横にいた子供が晋八の後ろについてきた。
「なんだよお前ら」
 老婆は乾きかけた唇に舌を這わせた。
「いやね、あんたのことが気に入ったのさ。もしあたしが二十年若けりゃ、しっぽり手込めにしてやったんだがね」
 夏だというのに、下卑た笑い声に晋八は寒気を覚えた。二十歳若いとはいっても、干物みたいな老婆との痴態なんぞ想像したくもなかった。
 だが、本気で口にしたわけではないらしい。途端に皺だらけの顔から笑みを消して前に立った老婆は、晋八の首や肩や胸、腕をさすり、ふうん、と唸った。
「なかなかいい筋骨しているね。でもあんた、幽霊みたいだ。修羅場の中でもあんただけふわふわ飛び回ってる感じだ。ずいぶん人を斬ってきなすったんじゃないかい」
「それがどうした」
「使えるってことさ。あたしと一緒に、博打を仕掛ける気はないかい」
「博打? おいおい、先にあんな目に遭って、まだやる気かよ」
「今日の鉄火場と、あの男との諍いのことかい。あんなもん運試しに、しみったれた言い争いさ。あんなんじゃ、何にも面白いことはないよ。これからまた、大博打に手を出そうと思ってる。あんたみたいな奴がいてくれると心強いんだがねえ」
 老婆は、目を大きく見開いて四白眼を晒した。
 狂ってやがる――。それが、老婆に対する、晋八の印象だった。
 多くの人間には箍があり、必ず最後の最後には最悪の事態を避けるべく働く。だが、これまでの来し方において、箍のない人間に行き当たることがあった。
 晋八自身がそうだった。
 若い頃に際した、ある出入りの時のことだった。敵味方二十人ほどが入り混じり、指や腕がいくつも地面に転がる派手な喧嘩だったが――。少し後ろの方で様子を眺めていた晋八は、前で戦っている連中が目をつぶり、子供の喧嘩のようにやたらめたらに長脇差を振り回していることに気づいた。度胸を買われていた兄貴分も、人を数人斬り殺したことがあるとうそぶく弟分も、皆そうだった。その様を目の当たりにした晋八は、こう思い至った。怖がらずに目を見開いて、ズブリとやれば勝てるんじゃねえか、と。
 実際、その通りだった。その喧嘩において、晋八は一人で多くの敵を血の海に沈めた。
 それから、晋八はその戦い方で死屍累々の山を築いた。怖じ気づいて腰の引けている連中の長脇差を躱すのはそんなに難しいことではなかったし、首を切りつけ、腹に刃先をねじ込み、輪切りにするのは大根を包丁で切るかのような作業となった。そんな晋八にはいつしか〝捨て鉢の晋八〟の二つ名もついた。傍目には、ふらりと死線に飛び込んでいく姿が無鉄砲に見えたのだろう。
 今にして思えば、あの日の喧嘩が、晋八の持ち合わせていた箍を奪った。
 その晋八をしても、狂っているとしか言いようのない老婆――。
 地獄へ緩やかに降っていく螺旋に足を取られようとしている人生(いま)を、ぶち壊しにしてくれる予感があった。
 晋八は、へっ、と鼻を鳴らした。
「いいだろう、あんたのおかげでずいぶん懐も暖けえし、あんたの傍にいると、食うに困らなそうだからな。それに、ここんところ、追っ手もねえ。あんたの下で働こう。よろしくな、ええっと」
 名乗っていないことに気づいたのだろう。老婆は曰くありげに口角を上げた。

ええじゃないか

山本祥子

Synopsisあらすじ

――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。



慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。

慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。



晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。



* * *



江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――

Profile著者紹介

1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある

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