ええじゃないか第四十七回 晋八の前に立ちはだかった者がいた
と――。晋八の前に立ちはだかった者がいた。
侍の連れだった。
年端のいかない小娘が、小刀を逆手に構えている。だが、その刃先は小刻みに震え、何度も瞬きを繰り返している。
闇の匂いがしたのだが、修羅場には慣れていないらしい。
「邪魔だ。どけ」
「どきませぬ」震える声で娘は言った。「お役目ゆえ」
「くだらねえな。問答の暇はねえ」
娘に向かって雑な横薙ぎを払った。娘は身を硬くした。
だが、その一撃は弾かれた。
先に蹴り倒した侍が娘の前に割り込み、晋八の一撃を捌いていた。
青い顔、それも口から泡を吹いている。だが、その双眸はなおも死んでいない。
その侍は髪を振り乱し、叫んだ。
「お前を逃がすわけにはいかぬ。何としても出頭して貰うぞ」
そうこうしている間に、正十郎が身を起こし、こちらに迫ってきた。鉈を背負っての突進は、さながら牛のようだった。
しかもそこに、藤井率いる火矢隊が矢を放ってくる。だが、どうしたわけか、晋八ではなく正十郎を狙っているようだった。
さすがの正十郎も突進を止め、その場で合羽を振り回し、火矢を落としている。
火矢のおかげで辺りが明るい。そのせいで、対峙する侍の顔がくっきりと浮かび上がっている。
細い顎、白い肌はさながら役者のようだった。昨今の侍は姫飯(ひめいい)を食べ、ほろほろと崩れるような煮物を口に運んでいるゆえ、顎が華奢に育つという。そんな揶揄とも冗談ともつかぬ話そのままの顔立ちだった。だが、そんな優男が、どうしたわけか、睨み殺さんばかりに晋八を見据え、歯噛みしている。
「俺はお武家さんに恨まれる覚えはねえぞ」
「うるさい。お前のおかげで某は大変なことになってるんだ」
「知るかよ」
藤井たちの矢が尽きた。ついに正十郎がこちらめがけて突進を再開した。逃げるな、と絶叫し、肩に背負う大鉈を大きく振りかぶった。まるで眉月(びげつ)のように刃がぎらりと光る。
まずい。
このままだと、もろに斬られる。
血の海の中に沈む己の姿が頭を掠めた。
その時、晋八は頭でものを考えるのを止め、己の本能にすべてを明け渡した。
そこからの晋八は迅かった。
侍の頭を刀の柄頭で殴りつけて昏倒させた後、身をかがめて正十郎の横薙ぎを躱し、蹴りを返した。体重の乗った晋八の蹴りは、正十郎の腹に深々と刺さる。口からよだれを吐き、ぐぼっ、と声を上げた正十郎はその場に崩れ落ちた。顔を上げ、晋八を睨み付けているものの、起き上がる様子はない。腹に手を当て、呼吸を荒くしている。激痛に悶絶している様子だった。
弓を携えた連中が次々に砂地へと降り立ちこちらへ迫ってくる中、晋八は侍を一瞥した。その侍は白目を剥いて大の字に倒れていた。
「なんで俺のことを恨んでるのかは知らねえけど、本当に身に覚えがねえんだ。許してくれとは言わねえが、放っておいちゃくれねえか。俺なんざ、吹けば飛ぶような塵芥なんだからよ」
青い顔をしてへたり込んだ少女を残し、今度こそ、晋八は踵を返し、桟橋へと向かった。
Synopsisあらすじ
――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。
慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。
慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。
晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。
* * *
江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――
Profile著者紹介
1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある
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