ええじゃないか第二十四回 愕然とした。父の言葉に、ではない
愕然とした。父の言葉に、ではない。父が、そんなにもひねた考えをしていたことに、である。そして、御公儀――徳川に対して不忠めいた考えを育てていたことに。
父の人生を思った。努力するでもなく、役目に勤しむでもなく、日々庭先で朝顔を育ててのんべんだらりと過ごしていた父の姿が頭を掠めた。子供の頃には別の感慨がなくはなかったが、今はただ、父という侍への失望感が肩にのしかかっていた。
酷く頭が重い。
だが、市之丞はあえて朗らかに口を開いた。
「されど、某は侍でございます。であるからには、必死でお役目に邁進するばかりです」
市之丞の言葉に際した権兵衛は、笑った。諦めとも、呆然ともつかぬ、そんな表情だった。
「仕方あるまいなあ。されど、いつか、父の言葉を思い出すとよい」
よっこらしょ、と勢いをつけて立ち上がった権兵衛は、部屋に散乱する反故紙や命令書の類を拾い上げ、縁側の火鉢の前に座った。そして、一枚ずつ、炭の上にくべ始める。季節外れの火鉢に当たった紙は、即座に灰になってゆく。ひとときだけ上がる火は、誰の身体を温めることなく、夏の風にかき消えていく。
蝉の声が聞こえる。生け垣と庇に切り取られた空の向こうには、真っ白な入道雲がそびえている。
「おやおや、秋葉山の方では今頃大雨だろうかね」
言い終えるやいなや、権兵衛は咳を繰り返した。一度の咳が岩が軋むかのようで異様に重く、それが何度も続く。
「父上、お風邪ですか。夏風邪とはよろしくありませぬね」
「ああ、ここのところ、枕が変わって調子を崩したらしくてのう」
暢気なものだ、という本音を呑み込んだ市之丞は、
「お体にはお気をつけください」
と頭を下げた。己でも驚くほど、冷ややかな声が出た。
だが、権兵衛は複雑な表情を顔から追いやって、
「ありがとうよ」
と満面に笑みを湛え、こう続けた。
「そなたは、ちと固い。もう少し、薄(すすき)のように生きよ」
人は、一見すると弱い、稲のようにならねばならぬ――。
昔、どこかで耳にした言葉が市之丞の耳朶を撫でた。だが、どこで聞いたものか、とんと思い出すことが出来なかった。
蝉の鳴き声が止んだ。北から冷たい風が流れ込んでくる。夕立も近い。
晋八は吉田城の大門をくぐり、表へと出た。
着慣れぬ青の裃、いや、そもそも袴すらも久々に穿いた。もちろん二本差しの経験もない。お武家さんはこんな堅苦しい格好しているのかよ、と辟易しながら、振り返ることなく吉田城を後にし、落ち合い場所に決めていた旅籠に向かった。定宿にしている脇本陣で合流しなかったのは、念には念を入れた措置だった。
指定された旅籠は、営業しているのかどうかも定かでない、ひなびた処だった。入り口に立ち声をかけても、奥から人が現れない。何度か呼んでやると、主人と思しき男が野良着姿でやってきた。「今、裏の畑をやっていたところでして」と土だらけの手を揉みながら言い訳する言葉を塞ぎ、「ここにお龍という女がいるはずだが」と居丈高に言うと、主人は二階の奥の間を指した。
Synopsisあらすじ
――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。
慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。
慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。
晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。
* * *
江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――
Profile著者紹介
1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある
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