ええじゃないか第三十六回 講武所で一時期扇斬りという修練が流行った
講武所で一時期扇斬りという修練が流行った。元は奥州弘前の林崎(はやしざき)流のもので、片膝で座り、刀の柄先を用いて閉じた扇を地面に立たせ、そこから抜刀、扇を斬るというものである。抜刀するためには柄を扇から離さねばならないが、支えを失った扇はすぐに倒れる。つまり、扇が倒れるまでの一瞬で抜刀、切りつけまでの動作を行なわねばならない。
講武所の生徒たちが刃先を当てることすら出来ず難儀する中、藤井は、
『そんなもの、児戯も同然よ』
そう涼しげに述べ、一度あらましを聞いただけでやってのけたのである。何度かやってようやく扇を弾き飛ばすことしかできなかった市之丞を尻目に、扇を二つに割って見せた。
市之丞は藤井のことが好きではない。あまりに出来すぎるこの先輩は、人に対して酷薄なところがある気がしてならない。やっとうばかりが上手い人間の僻みかもしれぬが、この先輩と話していると、己の劣等感をずるずる引きずり出されるような心地がするのである。
そんな私のあれこれをさておいて、市之丞は当然の疑問を発した。
「藤井さん、どうしてこんなところに」
確か、藤井は若くして関東取締出役に就いたはずだった。関八州の取り締まりを仕事にする藤井が、三河にいるはずはなかった。
すると、藤井は曰くありげに口角を上げた。
「そういうお前こそ、なぜこんなところに。しかも、なんだその格好は」
この日、市之丞が身につけていたのは、山伏装束だった。毎日のように同じ姿で聞き込みに当たっては誰かに勘づかれる虞もある、というお里の言い分を飲んだ格好である。
だが、藤井はわざとらしく手を打ち、声を潜めた。
「なるほどなるほど、そういうことか。お前の家業のお役目だな」
藤井も市之丞が御庭番であることは知っている。それゆえの納得であったのだろう。
「水面下で、ここのところ御庭番が吉田領内に入っていると噂があった。数日前に発覚した偽物のことを言うておるのかと思うたが、どうも違ったらしいな」
「噂になっているのですか」
「いや、囁かれている程度だ。そもそも、今の吉田領の有様では、御公儀(江戸)の目や耳が入り込んだとしても文句は言えまい?」
藤井は顎をしゃくり、町の中心地を見遣った。
道の真ん中を、行列が練り歩いていた。
豊作祈願と書かれた纏のような長物を持つ男を先頭に、法華太鼓のような太鼓を叩いて練り歩き、小さな餅やおひねりを辺りに投げて歩く一団だった。これに物乞いや子供たちが群がり、なんとなくうら寂しい吉田宿に、一瞬ばかり狂瀾めいた賑わいが戻った。
御鍬百年祭りの行列だった。
今、吉田領内はとんでもないことになっている。
所々で勃発した降札騒動が、町にも伝播した。おかげで宿場町でも御鍬百年祭りや他の神社仏閣の臨時祭が執り行なわれ、もはや町の機能は凍りついていた。旅籠や飯屋といった店だけが暖簾を下げるほかはほとんどの店が臨時に休み、皆、祭りの用意に大わらわになっている。
「こんな有様では、御公儀(江戸)が憂慮せぬわけがあるまい」
「ということは、もしかして、藤井さんも吉田家中についてお調べを?」
藤井は白い歯を見せて笑い、己の唇の前で指を一本立てた。
「口は禍の元ぞ。――俺は、ある男を追っておる」
「ある男?」
「武州、相模でさんざ人を殺したので人斬りの異名を持つ男だ。金で殺しを請け負っているみたいでな、大きな出入りの時には必ず誰かに雇われて姿を現しては、敵方の頭をいくつも割って去っていく。面白いのが、大鉈を遣うところだろう」
Synopsisあらすじ
――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。
慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。
慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。
晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。
* * *
江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――
Profile著者紹介
1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある
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