ええじゃないか第八回 現れたのは、先ほど増多屋の
現れたのは、先ほど増多屋の客間で紹介された少女、お里だった。
縁側の前、犬走りで跪いたお里は表情を変えず、権兵衛に首を垂れた。
「改めまして、御用町人増多屋の娘、里でございます。これよりは、殿と呼ばせていただきます。殿、これよりどうすればよろしいでしょうか」
のんびりと身を起こした権兵衛は、首元をぽりぽり掻きながら、目を天井に泳がせた。
「あー、あまり浜松やら吉田やらの様子も知らぬし、例の打ちこわしについてもさわりしか知らんでな。まあ、適当に調べてくれろ」
「適当に」
無表情のまま、お里は繰り返した。
「そう、適当に。もっと言えば、当たり障りなく」
愛想笑いを貼り付けつつそう口にする父に、市之丞は腹が立って仕方がなかった。そんな体たらくだから当家が風下に立たされているのが父上にはわからぬのか。そう叫びそうになるのを堪えつつ、市之丞は腹の内とはかけ離れた言葉を口にした。
「父上、某、この者に同行してもよろしいでしょうか」
これには、これまで無表情だったお里も僅かに目を見開き、畏れながら、と割って入った。
「ここのところ、浜松ですら安全とは言い難く......。この前も町外れでやくざ者が殺されていたのが見つかったばかりです。若様に何かあっては」
「御庭番の任務はそもそもが危険なものだろう」
お里は助けを求めるように権兵衛に目を遣った。
その権兵衛は、首元を掻きつつ、間延びした声を発した、
「まあ、構わぬが......。あまり、お里の邪魔をしてはならぬぞ」
「何を言いますか。調べは我ら御庭番のお役目。御用町人は、その手助けが仕事でしょう」
「そうなのだが。――まあいい。それでそなたの気が済むならよかろうしのう」
権兵衛はお里に目配せした。
「手数をかける」
「いえ、お役目ゆえ」
お里は相変わらずの無表情で、そう応じた。
市之丞の腹立ちは止まなかった。この期に及んでもまるでやる気を出そうとしない父に対しての怒りだった。これまで市之丞は、権兵衛がひたむきに取り組む様子を見たことがない。強いて言えば、内職代わりの朝顔育てなどがそうかもしれないが、花同士を交配させて面白い色の花を作り出す数寄者たちほどではないし、時々枯らしている様子を見るに、生きがいというほど取り組んでいるわけではないようだった。
「市之丞、あまり無理はするな。怪我をしてはつまらぬし、こんなことで命を落とすなぞもっとつまらん。肩の力を抜いていけ」
そんな権兵衛の助言にさえ、もどかしさと怒りを感じてならなかった。
かくして、市之丞は権兵衛を浜松増多屋に遺し、お里とともに吉田宿の打ちこわし事件の調べに当たることになったのであった。
やくざ者そのままの風体の男、棺桶に片足突っ込んだ老婆、そして年端のいかぬ子供という、家族とも旅芸人ともつかぬ奇妙な三人組、もとい、晋八、ましら、乙吉の三人が吉田宿に到着したのは、七月も半ばのことだった。
Synopsisあらすじ
――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。
慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。
慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。
晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。
* * *
江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――
Profile著者紹介
1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある
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