ええじゃないか第三十七回 「大鉈、ですか」
「大鉈、ですか」
「馬鹿にはできぬぞ。大鉈は重い。それゆえ、下手な使い手より手の内が極まるのだ。剣術を学んでおらぬ人間の武器としては、優れたものの一つだろうな」
「で、その男が何か」
「ああ、その男がどうしたわけか三河に出たという話を得てな。お上からの許しを得て、ここまで追いかけてきたのだ」
「そうでしたか」
藤井はその怜悧な顔を市之丞に近づけ、両肩を強く握った。その頬には、怜悧な面には似合わぬ、冷や汗が走っていた。
「あるまいとは思うが――。もし、大鉈の正十郎(まさじゅうろう)に出会ったら、逃げろ。あれは強い。特にお前とは相性が悪い」
かちんときた。市之丞にも矜持はある。少なくとも竹刀では藤井と互角だった市之丞からすれば、他のことを言われるならいざ知らず、剣のことについて助言を聞くつもりにはさらさらなれなかった。
「覚えておきます」
だが、正面から言い合うつもりもまたなかった。
「そうか」
納得したように何度も頭を振った藤井は、市之丞の肩を叩き、踵を返した。お前のことは誰にも話さないでおくから安心せえ、そう言い残して。
独り取り残された格好になった市之丞の口から、先ほど覚えた男の名がこぼれ落ちた。
「大鉈の正十郎、か」
御庭番を名乗る不逞者を捕らえることができずとも、藤井の代わりに大鉈の正十郎とやらを捕らえれば汚名返上の種になろう、そんな算盤勘定を頭の上で弾いた後、市之丞はまた聞き込みに戻った。
日陰でも夏は暑い。舌を出しつつ、晋八は衿をくつろげていた。
顎の辺りを触ると、固い毛が掌をくすぐった。しばらくひげを剃ってもいない。鏡を見ておらぬからわからぬが、きっと酷い顔をしていることだろうと晋八は思った。
晋八は、吉田宿の一角にあるお社の縁の下に身を隠していた。少し前、乙吉と蝉捕りに興じた神社だった。
農村や他の宿場に逃げる選択肢もあった。だが、下手に逃げると逆に余所者は目立つし、遠くに逃げた振りをして近くに潜伏すれば目くらましにもなると知恵が回り、多少なりとも縁を得た社に身を隠すことにした。昼の間は縁の下で暑さを凌ぎ、夜、日が落ちてから家々の残飯を漁ったり、ものを買ったり、近くの豊川で水浴びしたりして過ごしている。唯一の救いは、苦楽をともにしてきた長脇差が手元にあることだろうか。
「てめえはすげえよな。こんなんでも腐らねえんだもんな」
長脇差の鞘を払った。闇の中でも、長脇差は真白の光を放っていた。
刀身を鞘に収めた後、晋八は川から拾ってきた箕に大の字に横たわった。お社の床板が見える。
「さて、これから、どうしようかねえ」
社の軒下に住むようになってから独り言が増えたことに、晋八は気づいていない。
「どうせ、あいつらはもうとんずらしているか捕まっているかしてるんだろうしなあ。それに、ぐずぐずしているとあいつの手の者が追ってくるかもしれねえし......。さあ、どうしたもんかね」
どうしたもこうしたもない。とうの昔に晋八は算盤を弾いている。一刻でも早く、吉田宿から離れた方がいい、と。だが、なぜか乗り気がしなかった。出立しよう、そう心に決めても、後ろ髪を引かれるような思いに襲われ、結局できずに終わってしまう。
闇の中、ふう、と息をついたその時、晋八は、物音に気づき、身を起こした。
Synopsisあらすじ
――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。
慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。
慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。
晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。
* * *
江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――
Profile著者紹介
1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある
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