ええじゃないか第四回 本当の名は忘れちまったよ

 「本当の名は忘れちまったよ。皆には、ましら、って呼ばれてる」
「ましら」
 干からびた面やひょろりと長い手足は、確かに猿を思わせる。
「で、こっちは乙吉(おときち)」
 老婆ましらに付き従っていた小僧はちょこんと頭を下げた。
「ましらに乙吉、か。俺は晋八だ。――で、これからどうする」
 ましらは薄の上に広がる血の海を指しながら、からりと言った。
「浜松(ここ)に居ちゃ、足が付く。西に放浪(なが)れるとするかね」
「合点」
 晋八たちは薄原を出、東海道へと向かった。真夜中の東海道に人の姿はない。ただ、空の上には、ぽっかりと黄色い月が浮かんでいる。
 それは、なんとも蒸し暑い、慶応三年の夏の夜のことだった。


 浜松旅篭町の増多屋――。黒ずんだ建物の並ぶ町並からその看板をようやく見つけた和多田市之丞(わただいちのじょう)は笠の緒を解いた。
「父上、ありましたよ。いやはや、なかなか手間取りましたね」
 振り返ると、ちょうど市之丞の父、権兵衛(ごんべえ)が笠の縁をくいと上げ、増多屋の看板を見上げたところだった。黒羽織に紺の馬乗り袴、柄袋付きの大小という、武家の旅姿そのままの権兵衛は、旅籠の店先を眺めつつ、懐かしげに目を細めた。
「変わっておらぬのう」
「父上は、以前もこの宿を?」
「ああ、以前のお役目の時にも定宿としておったのでな」
 ならば場所も覚えていてよかりそうなものだ――。そうぼやきそうになった市之丞であったが、父上がお役目についていたのはずっと前のこと、忘れていても無理はない、と自らを納得させた。
 そんな息子の心中も知らず、権兵衛は六月の強い日差しを見遣っていた。
「ううむ。家に遺した朝顔が心配でなあ。そなたの母は万事茫洋としておるからのう」
「朝顔の心配ですか」市之丞はこれ見よがしに溜息をついた。「父上は朝顔とお役目のどちらが大事なのですか」
 市之丞の小言を、権兵衛は苦笑いで受け流した。
 まったく――。市之丞は気を取り直し、増多屋の建物を見上げた。
 普通の旅籠である。間口三間ほどの二階建て、屋根は総瓦葺き。黒々とした柱や看板はこの建物が見送った長い風雪を物語っている。東海道でも五本の指に入る大宿場町にあっては、大きくも小さくもなく、古くも新しくもない、中庸の二文字を形にしたような佇まいをしている。日の昇ったばかりの時分のためか客引きのお女中が出てきていないが、これは他の旅籠でも同じことだった。
 だが――。ここは、役目のための出城なのだ、そう思うと、市之丞の手は自然と握り拳になった。
 そんな息子の気負いを知らぬ権兵衛は、のろのろと増多屋の暖簾を掻き分けた。
 中はがらんとしている。既に旅人を送り出した後なのだろう、道に面した処、入って左手側にある板の間には人っ子一人いなかった。ひんやりとした薄暗い土間をしばし行くと、やがて奥の右手側に帳台を備えた畳の上がり框が見えてきた。

ええじゃないか

山本祥子

Synopsisあらすじ

――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。



慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。

慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。



晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。



* * *



江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――

Profile著者紹介

1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある

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