ええじゃないか第十四回 「ところで」市之丞は切り出した
「ところで」市之丞は切り出した。「三月四月に起こった、吉田宿での打ちこわし騒動、何か、興味を引く話題は見つかったか」
串に残る最後の一口を呑み込んだお里は、小さくかぶりを振った。
「いいえ、大筋では、ほとんど何も」
吉田宿打ちこわし騒動には何の裏もないことが明らかになりつつある。御公儀はその裏にきな臭い何か――たとえば、先に御公儀と干戈を交えた長州の策動――を疑っているようだが、今のところ、村方内部の、若衆と名主を始めとした乙名衆(おとなしゅう)のよくある反目が打ちこわしにまで至ったのだというところに落ち着きそうな気配がある。
何も面白いことがない――。
息をついていると、お里はぽつりと言った。
「されど」
「されど、どうした」
「此度の件、大筋よりも、むしろ細部が大事であるように思われます」
「というと」
「目の前をご覧ください」
お里に促され、茶屋に面した通りを眺めた。天下の五街道筆頭、東海道である。しかし、真っ昼間だというのに人の往来がまったくない。それが証拠に、先ほどからのんびり菜飯田楽を口に運んでいるというのに、茶屋には一向に新しい客が入ってこなかった。日の光が燦々と降り注ぐ道の上では、食い残しを探す痩せ犬があっちにふらふら、こっちにふらふらしているばかりだった。
「町に勢いがありませぬ。御公儀によい報告を上げるのであれば、打ちこわしの原因となった背景をも明らかにすべきかと。場合によれば、吉田家中の政に問題があったのかもしれませぬ」
「なるほど」
「本当は、こんなこと、増多屋と結んでいる御用町人に話を聞けばたちどころにわかるのですが、ここのところ、御用町人たちがどんどん廃業していまして」
「御用町人が? なぜ」
「表向きの仕事が上手くゆかぬからです」
「御用町人にはある程度、手当があるのではないか」
お里は片眉を吊り上げた。何を言うかと思えば、と言いたげな態度を隠さない。
「本来は申し上げるべきことではありませぬが、御用町人には雀の涙ほどの手当しかありませぬ。もちろん御庭番の皆様をお手伝いする際にはそれなりに銭は出ます。されど、御用町人が耳を澄まし、網を広げておくには常日頃からの費えがかかります。御用町人が御公儀に従っているのは、我らの祖が当地に根付いた際、何くれなく面倒を見ていただいた旧恩によるところが大なのです」
考え込んでしまった。
御用町人に金が行かず、次々に廃業せざるを得ない状況は、御公儀にとって途轍もない損失ではないのか。ここのところ御公儀はしきりに戦艦を買い付け、西洋兵器を導入しているそうだが、むしろ従来の優れた仕組みにも目を向けるべきなのではないか。そう思わぬことはなかったが、己が軽輩であることを市之丞は誰よりも弁えている。結局、今の己にはどうしようもないことだった。
市之丞が黙りこくった意味を取り違えたのだろう、お里は謝罪の言葉を口にした。
「申し訳ありませぬ。変な話をいたしました。――とにかく、この町で何が起こっているのか、もっと調べを重ねた方がよろしいかと感じました次第です」
「――わかった」
市之丞が言葉の接ぎ穂を失って茶に手を伸ばした。茶を飲み干してもなお、口の中に苦みが残った。
晋八たち一行は、吉田宿の人間から話を聞き、王西村へと足を伸ばした。
この地は吉田宿から南に一里ほど行った処にある農村である。豊川の下流域の三角洲に位置していることもあって平らな大地が広がっており、辺り一面青々とした田んぼが広がっている。海が近いのだろう、王西村に足を踏み入れたその時、ふんわりと潮の匂いがした。道の上から眺めた王西村は、さながら、稲穂の海に浮かぶ離れ小島のような趣があった。
Synopsisあらすじ
――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。
慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。
慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。
晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。
* * *
江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――
Profile著者紹介
1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある
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