ええじゃないか第十二回 だが、市之丞の気分は

 だが、市之丞の気分は名物に舌鼓を打ったくらいでは一向に晴れない。というのも――。
「若様、この後に関してですが......」
 市之丞の横できびきびと午後の予定を口にするお里のせいである。
 旅に出た直後、お里は市之丞にずいと顔を寄せた。ふわりと漂う甘い香りに胸が高鳴ったものの、すぐに市之丞は奈落に突き落とされた。
『はっきり申し上げます。若様は邪魔です』
 棘のある口ぶりに、市之丞は腹を立て、文句を言った。武士に対する口ぶりではあるまいと。だが、お里は譲らない。
『本当なら、お父上と同じく浜松で物見遊山なさっておられればよかったのです。御庭番のお方が陣頭に立つと、わたしたちのやり方にケチをおつけになるわ、せっかくこれまで培ってきたものを台無しになさるわで本当に困るのです。どうしても、ということでしたので、仕方なしにお連れしましたが、若様、余計なことは一切なさらず、わたしの言うことに従ってください』
 なんだこの女は――。さらに文句を言おうとしたが、
『よろしいですね』
 有無を言わさぬお里の無慈悲な詰めにしてやられ、最後には頷かされていた。
『助かります。我らには、後がないのです』
 声を潜め、お里は言った。平坦な口調が、逆に怖かった。
 お里はとてつもなく優秀だった。浜松から吉田宿にかけての下調べや風聞もほとんどはお里が道筋をつけたものだった。その内容は極めて密なもので、直にその光景を眺めずとも当地の有様が目に浮かぶようだった。そして七月半ば、こうして吉田宿に入ってもなお、ほとんどお里のお膳立ての通りに調べ回っている。
 市之丞にもわかっている。もしお里がおらなんだら、自分は何もできなかったろう。いや、というより、まったくもって己はこの調べの役に立っていない。
 御庭番の家に育ったにも拘わらず、忍び働きについて何一つ教わってこなかった。昔、ある飲みの席で年嵩の同輩を捕まえ、忍び働きの極意を訊いたことがあった。お役目はどのように果たすのですかと。するとその同輩は、しれっとこう述べた。
『御用町人にすべてを任せればそれで良い』
 この同輩は決して無能な御仁ではなかった。それどころか、幾度となく忍び働きを拝命し、毎度実績を積んできた人だっただけに、その答えは意外だったし、失望を抱いた。その同輩に、ではない。お役目にである。
 かつて御庭番は独力で調べに当たっていた。だが、当世において御庭番は隠密としての実務を御用町人に丸投げするようになり、忍び働きにおける御庭番の役割は、御用町人の監督と管理、報告書の作成、つまるところ他の役方と変わらぬ有様と化した。
 年嵩の人間ならば、監視、監督、大いにこなせるだろう。しかし、市之丞は実務を知らない。実地を知らぬのだから、御用町人にこうしましょうと言われれば、左様か、と右から左に受け流すしかない。それでは、己などいようがいまいが同じことではないか――。
 そんな懊悩に苦しめられている。
 いつしか、手が止まっていた。食べかけの菜飯田楽が串からこぼれ落ちた。べちゃりと袴の上に落ちた感触で、ようやく市之丞は己を取り戻した。
「若様、お召し物が」
 手を伸ばすお里を制し、自ら手で菜飯田楽を拾い上げ、懐の紙で袴を拭いたものの、味噌だれが旅袴に染みを作ってしまった。これから洗濯しても、おそらくこの染みは残り続けることだろう。かなり派手にやってしまった。
「大丈夫ですか、若様」
 小さく首を振った市之丞は、思わずお里に問うた。

ええじゃないか

山本祥子

Synopsisあらすじ

――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。



慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。

慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。



晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。



* * *



江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――

Profile著者紹介

1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある

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