ええじゃないか第三十八回 音がしたのは、境内の方だった

 音がしたのは、境内の方だった。ここのところ、昼間は町の方がうるさくて、社に人が来ることはほとんどない。どうやら町方にも御札が降り始め、祭りの波が広がり始めているらしい。従って、ここ数日、ほとんど社に人の気配がなかったのだが。
 犬か?
 犬にしては大きい。
 やがて、軒先の向こうに、二つの大きな影が覗いた。人、二人だ。
 そのうちの一人が軒先を覗き込み、身をかがめ、這入ってきた。
 心中に冷たい覚悟が走る。大きな出入りの直前、全身に染み渡らせるのと同じ、人を斬る覚悟だった。
 長脇差を引き寄せ、音もなく鯉口を切る。
 なおも向こうは奥にやってくる。そしてついに、斬れる間合いにまで侵入した。
 斬るか。
 覚悟を決め、柄に手をやった。
 そして、一気に抜き放とうとした瞬間、向こうが声を発した。
「おっちゃん」
 おっちゃん?
 すんでのところで右手を柄から離した晋八は、目の前の影に目を凝らした。
 そこにいたのは、乙吉だった。
「乙吉、お前、どうしてここに」
「探してた」
「探してたって、俺を、か」
 こくりと乙吉は頷いた。
 乙吉を伴って、表に出た。するとそこには、相変わらず小汚い桜色の小袖に身を包むましらが腰に手を当てて立っていた。
「こんなところにいたのかい。灯台もと暗しってやつかね」
「おう、婆。元気そうじゃねえか」
「まあね。賭けに負けて、あんまりいい気分じゃないが」
 謝る気にはなれなかった。こちとら、命を張ってこなした仕事だった。
 代わりに、晋八は皮肉を言った。
「それにしても、あんたらしくねえな」
「なにが」
「だってよお。博打に負けたんだ。あんたからすりゃ、俺なんぞすっぱり切り捨ててとんずらしちまった方が色々と楽だろうし、身も危なくねえはずだが」
 そうなんだけどね、とましらは苦々しげに言い、乙吉を指した。
「この子が言うことを聞かなかったんだよ。いつの間にこの子を懐かせたんだい」
 晋八が捕まりかけたのを知った際、ましらは一目散に逃げるつもりだった。だが乙吉が「おっちゃんと一緒じゃなくちゃ嫌だ」と言い張り、結局仕方なしに晋八を探していたのだと、ましらは苦々しく口にした。
「乙吉に感謝するんだね」
 ましらが親指を向けると、乙吉は小首をかしげた。
「えーっ、でも、ましらもさんざんおっちゃんの心配していたのになぁ」
「細かいことはいいんだよ」
 ましらは、わざとらしく咳払いをした。
 晋八は、温かなものに包まれたような感覚に襲われた。
 これまで、晋八は殺伐とした処に生きていた。臆病な奴から死んでいく。死ぬも一定(いちじょう)、それならば、ひとときでもいいから男伊達の花を咲かせろ――。そんな刹那の教条だけが、晋八の寄る辺だった。見捨てて見捨てられて、裏切って裏切られてが当然の場に身を置いていた晋八からすれば、二人がこうして自らを探してくれたということは、嬉しいとも違う、むしろ、どうしてこんなことに、という困惑が頭の中を行き来していた。ただ、その困惑の外側には柔らかでくすぐったい羽毛がついていて、触れる度になんとなく身体の中心が温かくなる。
 その感覚に名前をつけることが出来ずにいる晋八を尻目に、ましらは強く手を叩いた。
「さて、再会を喜んでいる暇なんかない。これからどうするかだよ。その前に、晋八、あんた、何があった? 教えてくれろ」
 言われるがまま、晋八は起こったことを説明した。

ええじゃないか

山本祥子

Synopsisあらすじ

――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。



慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。

慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。



晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。



* * *



江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――

Profile著者紹介

1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある

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