ええじゃないか第一回 遠くに三味線の音が聞こえる

 遠くに三味線の音が聞こえる。芸者の手によるものだろうか。そのくせ、妙に調子がずれていて、なんとも締まらない。
 またやっちまった。
 薄原の只中、口の端でそう呟く晋八(しんぱち)の足下には、男が倒れていた。
 黒の着物の袖をからげた姿で血の海に沈み、手に刃物(ドス)を握るその男は、地獄の釜が煮立つような不気味な音とともに、真っ赤な泡を口の端から零している。手足を動かし、苦悶にしばし身をよじらせていたものの、やがて、ぴたりと動かなくなった。
 晋八は刺さったままになっていた己の長脇差を男の胸から抜いた。闇の中、青い刀身が紅と混じり、紫色に変じていた。男の黒の着物で血を拭い、鞘に収める。
「あーあー、やっちまったねえ」
 しわがれた声が、風に混じって薄原に響く。他人事のような言葉に腹が立って、晋八は悪態を吐いた。
「元はと言えばてめえのせいだろうが」
「そうかねえ。あたしは別に、助けてくれなんて頼んじゃいないよ」
 舌を打ち、晋八は振り返った。闇の中、晋八の目の前に一つの影が像を結んだ。
 年の頃七十ほどの、貧相な老婆だった。髪には白いものが混じり――、いや、黒いものが、といったほうが正確だろう――、娘が着れば似合うであろう桜色小袖を纏っている。もっとも、洗濯も碌にしていないのか色合いはくすみ、なんとなく埃っぽい。その後ろには、年の頃十ほどの少年が付き従っている。老婆と同じく薄汚れた着物姿だった。
 老婆は血の香り漂う薄原の真ん中でにたりと笑った。開いた口から、二本しか残っておらぬ歯が覗いた。
「あたしは逃げる算段してたんだ。こんな処から逃げ出すなんざ、目隠しされてたって簡単だったわさ。あーくわばらくわばら。恨むならこいつを恨みなよ」
 さっきまで男だったものに語りかけ、老婆は皺だらけの掌を顔の前で擦り合わせた。
「口の減らねえ婆だ。そう言いつつ、絶体絶命の土壇場にいたじゃねえか」
「あれれ、そうだったかねえ」
 老婆はけたけたと笑う。忘れた、と言わんばかりだった。
 助けるんじゃなかった――。晋八は、肩に重いものがのしかかるのを感じた。
「くだらねえことに、長脇差(こいつ)を使っちまった。ちくしょうが」
 老婆を助けようと晋八が決めたのは、袖すり合うも多生の縁としか言いようのない成り行きによるものだった。
 晋八はこの日、三河浜松宿で草鞋を脱いだ。西へと向かう急旅(はやたび)の途上である。憚りのある旅ゆえ、小さな宿場にはあまり近寄りたくなかった。天下の暴れ川と名高い天竜川の川岸に位置し、東海道や脇往還の中継点となっているこの城下町は、余所者に優しく、物陰の多い、身を隠すにはこれ以上ない処だった。
 だが、初日、早速諍いを起こしてしまった。
 浜松ほどの宿場となれば、いくらでも賭場は立つ。晋八も探すのには苦労しなかった。宿屋のある旅篭町から一本裏路地に入ったところに、早速それらしき場所を見つけた。揃いの紺法被を着て腰に長脇差を携えた柄の悪い男が、闇の中、火の気のない屋敷前で往来に目を光らせている様を見れば、中で何をしているのか一目瞭然だった。晋八は己の鼻の良さに口笛を吹いたが――。鋭い嗅覚は賽子の出目に生かされることはなかった。路銀を失いすってんてん、着物か長脇差を手放さないと取り返せないところまで追い込まれた。長脇差は絶対に手放せない、今は五月、裸でも死にゃしない、着物を手放そうか――、そう算段を打ち、銭を借りに立ち上がりかけたその時、晋八に声をかけてきたのが件(くだん)の老婆だった。

ええじゃないか

山本祥子

Synopsisあらすじ

――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。



慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。

慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。



晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。



* * *



江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――

Profile著者紹介

1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー