ええじゃないか第二回 ずいぶん負けが込んでるね
『ずいぶん負けが込んでるね』
その老婆は、横に座っていた賭場の客だった。目の前に駒を積み上げ、ほとんど歯が抜けた口元を緩ませている。子供を侍らせ、煙管を持たせている様は、如何にもお大尽の真似事といった風だった。そう見えたのは、老婆の着ている桜色の小袖が埃じみていたからだった。
晋八は世間話に興じる気分ではなかった。
『うっせえ、話しかけてくんなよ』
凄んだが、老婆に怯む様子はなかった。
『おお怖。若いの、人生のコツを知ってるかい。いつでも笑顔を絶やさぬことさ』
『笑えねえ冗談だぜ』
鯉口を切らねえとわからねえのか? 晋八が脇の長脇差に手を伸ばしかけたのと同時に、老婆は目の前に積んであった駒のいくつかを晋八に投げ遣った。
『あげるよ、若いの』
老婆の口ぶりから憐憫を見出すことは出来なかった。作り過ぎちゃったからあげると煮物をお裾分けするかのような気安さがあった。
晋八は長脇差に伸ばしていた手を引っ込めた。
『いいのか』
『いいよ。あたしは金が好きなんじゃない。賭けが好きなんだ。まあもちろん、金がなけりゃいつか首をくくる羽目になるが、今日はこの通り、負けはしないって決まったんでね。金は天下の回りもの、困っているお人に融通するほうが気分がいいさね』
結局、老婆から貰った駒のおかげで、晋八は着物を質入れせずに済んだばかりか、お開きの頃にはしばしの間遊んで暮らせるだけの銭を得た。
追い出されるように賭場から出された晋八は、ふと、夜道の上で、先の老婆、その老婆に付き従っていた小僧の姿が目に入った。揃いの法被――恐らくは賭場を開いていたやくざ一家のもの――を纏う若衆と連れ立って、人気のない方に消えていかんとしていた。きな臭いものを感じた晋八は三人の跡を追ったのだが、その想像は当たっていた。法被の男は大勝ちした老婆から銭を奪うつもりだったらしく、町の隅にある薄原に二人を招き入れるなり、懐から小刀を取り出し、木鞘を払った。
見て見ぬ振りも出来た。だが、駒を恵んで貰った恩義もある。打算と男伊達の天秤はしばし揺れたものの、結局男伊達が勝り、間に割って入り――、気づけば男を斬り殺していた。
晋八はくるりと踵を返した。
老婆が頓狂な声を上げる。
「おや、どこに行こうってんだい」
「知れたこと。逃げるんだよ」晋八は地面に転がる男を顎でしゃくった。「こいつ、やくざ一家の下っ端だろ。こうなっちまった以上、命を狙われかねねえ」
「申し開きすりゃいいんじゃないかね。客から金を巻き上げていたなんてことが知れたら、向こうさんだって平謝りだろ」
「面倒くせえ」
「なにが」
斬り殺してやりたい衝動を抑えつつ、晋八は己の長脇差を帯から少し引き抜き、示して見せた。
「こいつの使い勝手の良さを知っちまうと、誰かと言葉を交わすってのが馬鹿馬鹿しくなっちまうのさ」
今度こそ、修羅場から顔を背けた。
Synopsisあらすじ
――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。
慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。
慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。
晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。
* * *
江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――
Profile著者紹介
1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある
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