ええじゃないか第三十二回 同時に降札騒動が勃発したというより
同時に降札騒動が勃発したというより、誰か煽動している者があるという筋書きの方が説得力があるし、前者では、結局「何もわかりませんでした」と同義である。この三人がどれほどこの騒動に関わっているのかは不明だが、この三人には首謀者(いけにえ)になってもらうことにしよう。
ふと、父の言葉を思い出した。
『我らは、御公儀(江戸)の目に過ぎぬのだ』
違う。心中で父の言葉に反駁した。父上はそうかもしれない。凡百の御庭番も所詮は目なのだろう。だが、己は違う。徳川の盾となり、矛となるために研鑽を重ね、ようやく忍び働きに乗り出したのだ。己の働きで以て主家を守り立て、支えるのだ。青い気負いが、市之丞の心を脈動させ、突き動かす。
市之丞は膝を叩いた。
「この三人組を追おう」
「は?」お里は頓狂な声を上げた。「いや、この三人を追ったところで、何も出てこないのではないでしょうか」
「いいのだ、この三人を洗おう」
解せぬとばかりに眉根を寄せていたお里も、最後には元の無表情に戻り、小さく息をついた後、最後には承知した。
そうして、例の三人の足跡を追わんとした時分、突如、市之丞に帰還命令が下った。
火急の報せあり。お里とともに、一刻も早く浜松へ戻られるべし。
嫌な予感がした。だが、命令を反故にするわけにも行かず、お里と二人、浜松へと戻った。
開け放たれた窓の向こうには、夜の帳が広がっている。
晋八は吉田宿の貧乏旅籠の二階で、客の来訪を待っていた。
着慣れぬ裃に袖を通し、大小を腰に差す。大声を出せるよう、何度も腹を引っ込めて、あー、あー、と野太い声を発した。やがてやることがなくなって手持ち無沙汰になった。だが、一度覚悟が据わってしまえばなんということはない。あぐらを掻いて、その場に据わった。
今日の夜、吉田家中の藤井が、金を届けにやってくる。
連絡があったのは、今日の朝だった。裃姿の侍が旅籠に現れたのである。貧乏長屋の客には似つかわしくないその侍は、今日の夜、吉田家中公用方の藤井が来訪する旨を告げ、去っていった。
これにはましらも手を叩いた。
『どうやら、博打はあたしたちの勝ちみたいだねえ』
最後までしくじるんじゃないよ、とましらは晋八の肩を小突いた。
かくして、晋八は一人、藤井の来訪を待っている。
ましらたちは脇本陣に控えている。ここにいてもやることがないからだ。ここには晋八一人が構えている。
しばし、目を閉じて時が過ぎるのを待った。
と――。
階下が騒がしい。
藤井が到着したのだろうか。
目を開いた。
何かがおかしい。晋八の勘が何かを告げている。そうだ、これは――。散々相対したことで覚えた、修羅場の臭いだった。修羅場の香りは、亀虫を潰した時のそれに似ている。鼻の奥でつんとくるような感覚があり、しばしの間抜けない。
身を翻し、片膝立ちになった晋八は、大の刀の鞘に手を伸ばした。
ややあって、部屋の戸が開いた。
果たして、藤井だった。真っ黒の羽織に鼠色の袴姿、小さな月代は紙燭(しそく)の光を跳ね返している。だが、蒸し暑いこの場には似合わぬ、氷のような目が晋八を捉えて放さない。
Synopsisあらすじ
――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。
慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。
慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。
晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。
* * *
江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――
Profile著者紹介
1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある
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