ええじゃないか第四十三回 帳台の向こう、板敷きの上がり間に

 帳台の向こう、板敷きの上がり間に、一人の侍の姿があった。上り框に腰を下ろしたその男は、以前のように黒の羽織に鼠色の袴姿でそこにいた。
「ここにいたか。探したぞ」
 市之丞の顔を見るなり破顔したのは、藤井太郎左衛門だった。その藤井は、顎に手をやりつつ、曰くありげに口角を上げた。
「それにしても、お前、本名で宿を取っておるのだな。ちと不用心ではないか?」
「市之丞などという名前、ありふれておりますゆえ」
「なるほどなるほど」
 一人、藤井は合点する。
「何用ですか。お役目でお忙しい藤井さんが、こんなところにやってくるなんて」
 こんなところ、と口にするや、帳台に座る主人の厳しい視線に晒された。首をすくめる市之丞を尻目に、藤井はからから笑う。
「まあ、確かにこんなところに足を運ぶほど暇ではないが――ちと、お前と談じたいことがあってな。少し、顔を貸せ」
 昔から、この人はこちらの都合など一切お構いなしに段取りを進めるお人だった。そんなことを思い出しつつ、こちらを睨み付けてくる主人を尻目に、己の草鞋を履き、藤井に続いて旅籠を出た。
 御鍬百年祭りの熱気が溢れ、旅姿の者たちが行き交う表通りをしばらく歩く。以前と比べて街道筋は賑わいを取り戻している。だが、皆、何かに取り憑かれたようでもあって、どこか町はぎすぎすした雰囲気に呑まれていた。
 そんな町を素通りして連れて行かれたのは、吉田宿の外れだった。
 この辺りは、二階建ての建物がずっと続いている。赤く塗られた欄干や格子の目立つその建物は、旅籠にはない華やぎに満ちている。見上げれば、欄干に寄りかかるように座る女が、こちらに手を振り、手招きしている。赤い着物をはだけさせ、肌の白さを見せつけつつ、科(しな)を作った。真っ赤に熟れ切った柿の放つ濃厚な香りにも似た瘴気が、界隈には漂っていた。
 これもまた、吉田宿の横顔である。
 当世、女性もちらほら見受けられるようになったが、旅は男の領分である。それゆえ、街道筋では給仕の名目で置かれた女郎、飯盛女のいる飯盛宿が隆盛を誇っている。ここ吉田もその例に漏れず飯盛宿が盛んで、隠れた名物となっているのだった。
 顔をしかめつつ道を行く市之丞を、藤井が笑った。
「なんだ、お前はこうした場所は嫌いか」
「悪所通いは武士の作法に適っておりませぬ」
「はは、確かに。だが、密談にはもってこいだ。誰も、他人の話に耳を傾ける暇もないし、声は、三味線や女の嬌声に紛れる」
 藤井が暖簾を割って入ったのは、飯盛宿の並ぶ一帯に立つ料理屋だった。料理屋とはいっても江戸にあるような煮売酒屋のような粗末なものではない。座敷や寝所も備えた、江戸吉原でいうなら揚屋に相当するような場所だった。料理屋を名乗っているのは、公娼の地ではない当地で揚屋を謳うことができぬからだろう。
 藤井は適当に芸者を呼ぶよう料理屋の女将に命じ、案内もないまま、すたすたと奥の部屋へと入っていった。その部屋は、三方を土壁に囲まれたしみったれた八畳間だった。もっとも、日の光もほとんど届かないおかげで、中はひんやりとしていた。
 刀を帯から抜き、畳の上に腰を下ろした藤井は、部屋を見渡す。
「ここはこんな部屋だからな、昼でも夜でも人気がない。隠れてものを話すにはもってこいだ。芸者を呼べとは言うたが、店の女将にはあらかじめ、呼ばぬでよいと言うてある。店に来ている客に怪しまれないための手管ぞ」
「そうでしたか――。で、一体今日は何用で」
 ふむ。小さく鼻を鳴らした藤井は居住まいを正し、対座する市之丞に身を近づけた。
「お前の探し人――。御庭番を名乗り吉田城に恫喝を仕掛けた男が、市場港から逃げんとしておるようだ」
「市場港というと、お伊勢参りの船が出ている港ですね。伊勢に逃げるつもりなのですか」
 御庭番より関東取締出役のほうが調べが早いことに、忸怩たるものを覚えた。だが、驚きはない。それが関東取締出役だった。こと、治安維持、諜報に関わるお役目は、古い組織より新しい組織の方が動きがいい。若い猟犬のほうが鼻が利くのと同じことだ。
 むしろ、市之丞の興味は他の処にあった。
「なぜ、そんな大事なことを某にお教えになるのです?」

ええじゃないか

山本祥子

Synopsisあらすじ

――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。



慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。

慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。



晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。



* * *



江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――

Profile著者紹介

1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある

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