ええじゃないか第二十八回 手の中で羽根をばたつかせ、じじじじじ
手の中で羽根をばたつかせ、じじじじじ、と抗議の声を上げる蝉を、晋八は乙吉の前に示した。
「こうやるんだ。ゆっくりふわっとやるんじゃねえ。一気にがばっと捕まえるんだ。虫ってのは、枯れ葉みたいに脆い気もするが、実際には、案外潰れねえもんだ。じっと構えて、一気に。それが虫取りのコツだぜ」
「へえ、すごい」
「子供の頃取った杵柄だな」
「おっちゃんにも子供だった頃があるのか」
「爺も婆も、おっちゃんもおばちゃんも、昔は子供だったんだよ。ま、もっとも、子供の頃のことなんざ、ほとんど覚えちゃいねえけどな」
晋八は捕らえた蝉を空に放った。ジジジ、と声を上げ、蝉はふらふらと辺りを飛び回り、やがて木と木の間に消えた。
「やってみろよ。今度はお前の番だ」
「うん!」
力強く乙吉は頷き、虫捕り網を手に駆け出した。
その背を眺めながら、晋八は頬に滴る汗をぐいと拭き、切り株に腰掛けた。
と――。
視線を浴びた気がして振り返った。
誰もいなかった。ただ、杉の木の林立する境内が広がるばかりだった。
「まさか――、な。今更やってくるはずはねえよな」
そう言ったものの、いつの間にか長脇差の鞘の鯉口に伸ばしていた左手が、ひどく汗ばんでいた。
これまで、捨て鉢に生きてきた。己の人生に特段の値も、人一人相応の重みも感じなかったがゆえだった。だが、今になって、鴻毛の如き己の命を粗末にすることに、僅かばかりためらいが生まれている。
「なんで、かねえ」
遠くに乙吉の声を聞きながら、晋八は小首をかしげた。
吉田宿に帰還した和多田市之丞は、御公儀からの命令通り、吉田領内で頻発している御札降りの調査に着手した。
札が降り、臨時祭礼を開いた村は既に数十ヶ村を数えている。まずは札が降った日付を整理し、広がりを見た。その結果、端緒となった場所が明らかになった。そこを足がかりに調べを始めることにしたのだった。
二人が向かったのは、吉田宿から半里ほど南に行ったところにある農村、牟呂だった。豊川の氾濫で形作られたのであろう三角洲の只中にあるこの地は、右を見ても左を見ても見渡すばかりの田んぼが広がり、風が吹く度、稲穂がうねりを上げた。牟呂村は、稲穂の波間に浮かぶ小舟のように、集落が姿を現した。
既に牟呂は臨時祭を終え、元の落ち着きを取り戻していた。畑や田んぼに出て野良仕事に精を出す村人たちに聞き込みを重ねたところ、最初に起こった王西村の御札降りは七月十四日の出来事だったことがわかった。
あらましはこうだった。
七月十四日夕方、上牟呂村の一部である王西村、その村人屋敷の竹垣に伊勢外宮の御札が棄てられていた。これを目撃した者はかなりの数いたらしいが、皆、その日の仕事が忙しく見て見ぬ振りを決め込んでいたらしい。が、ある者が村の組頭にこれを届けた。そこから騒ぎが大きくなっていったのだという。
「解せませんね」下調べを終えたお里は小首をかしげた。「村人とて、でくの坊ではありませぬ。御札が落ちていたくらいで大騒ぎになるはずはありません。何かあったのでは」
調べを重ねるうちに、その辺の事情も明らかになっていった。
Synopsisあらすじ
――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。
慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。
慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。
晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。
* * *
江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――
Profile著者紹介
1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある
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