ええじゃないか第四十六回 若い侍に、少女だった
若い侍に、少女だった。侍は二十そこそこ、茶の羽織に鼠色の袴を合わせ、大小を腰に差している。どうしたわけか藤井と同じで、恐ろしく小さな月代を剃っている。そして、その横にいる少女は如何にも町娘といった風だったが、なぜかその少女からは己と同じ、闇の匂いを嗅ぎ取った。
侍の方が、こちらに近づいてきた。途中、刀をするりと引き抜いた。まったく気負いのない、呼吸するかのような抜刀は、その侍の修練のほどを如実に語り出していた。
その侍は、縄を絞ったかのような、張り詰めた声を発した。
「お前が御庭番を名乗っておった男か。おかげで色々大変な目に遭った。出頭してもらう」
「そしたら、どうなるんだよ」
「――お前の罪は重い」
目の前の侍はそう述べただけだった。
その意味を察せぬほど、晋八も馬鹿ではない。苦々しく舌を打った。
「なら、はいそうですかと行くかよ」
晋八は腰の長脇差に手をやり、そのまま抜き打ちに斬りかかった。
相手も然(さ)る者、一歩飛び退いてその一撃を躱す。
だが、見切った。
この侍、一度も人を斬ったことがない。足運びや所作から剣を学び厳しく修業した風は見て取れるが、修羅場に身を置く際の肝心要である胆力がまるで練れていない。
晋八は試してみることにした。両手を広げ、相手の間合いに入ると左手で手招きした。斬ってみろ、という挑発だった。
それに応じ、相手は袈裟切りを放った。鋭い剣閃だったが、身体まであと三寸のところで明らかにその勢いが殺(そ)げた。避けるのは容易い。半身になって躱し、すれ違い様、相手のみぞおちに膝蹴りをかました。
悶絶する侍を視界の隅に止めつつ、晋八はましらたちに叫んだ。
「こいつらは俺が食い止める。おめえら先に逃げろ」
晋八の言葉に背を押された格好のましらたちは、奥の桟橋に向かって駆け出した。だが、藤井の周りにいる人魂――手の者たちが前に出、火矢を放った。
晋八は鼻で笑った。相手の弓は取り回しをよくするためか半弓で揃えられている。長弓ならいざ知らず、半弓で、しかも火矢を飛ばすとなれば、弓勢(ゆんぜい)はたかが知れていた。晋八からすれば、そんな矢の動きなど止まって見える。くるりと身を翻し、ほとんどの火矢を撃ち落とした。
だが、打ち漏らした矢が、桟橋に当たり、火を上げた。ましらたちは既に猪牙舟に乗り込んだようだったから被害はない。
俺も行くか――。
晋八は刀を鞘に収めんとした。
だが、突然、背中に怖気が走った。これまでとは比べものにならぬ殺気が砂浜を薙いだ。得物を構え直し身構えた。
すると、藤井たちのいる岩場の向かって左手側にある茂みから、一つの影が飛び出した。三度笠に青と白の縞引き廻し合羽姿のその男の手には、身の厚い大鉈が握られている。
「見つけたぞ、捨て鉢の」
「来ちまったのかよ、大鉈の」
一陣の風の如く現れ、前進していた藤井の手の者を蹴散らし向かってくるは、大鉈の正十郎だった。
「お前の首、ここでいただくぞ」
「ちっ、てめえも周りをよく見やがれ。そんな場合じゃねえだろう」
大鉈を避けながら晋八は怒鳴る。だが、正十郎はぎらぎらと目を光らせたまま、応じない。
「問答無用。廻りの事情など知ったことか。俺はお前の頭を叩き割る。それだけだ」
「てめえも相当狂ってやがるな」
晋八が言うが早いか、正十郎は鉈を振り上げ、こちらに飛びかかった。
相手の大振りの一撃を避け、足を引っかけた。重心が狂わされた格好の正十郎は砂の上に倒れた。
「おめえと戦うのは面倒だ。あばよ」
刀を引いて後ろに跳び、そのままくるりと身を翻した。
Synopsisあらすじ
――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。
慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。
慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。
晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。
* * *
江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――
Profile著者紹介
1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある
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