ええじゃないか第三十九回 さすがのましらも頭を抱えた
さすがのましらも頭を抱えた。
「なるほどねえ。八州廻りが三河に出張っていて、目をつけられちまったと。そりゃ、難儀にもほどがあるね。関東に流れた古い仲間はみいんな八州廻りに召し捕られてる。あいつら、さながら狼みたいな連中だ。領内の町方役人とは比べものにならない相手だ。――吉田から出よう」
「だがよう、どうやって?」
晋八とましらは同時に息をついた。
このまま東海道を上ってゆくと尾張徳川家の領内に入る。徳川宗家ほどではないにせよ、尾張徳川家中の町方役人は優秀で知られている。名古屋近辺では、名だたる回状持ちも背を丸めて通行するという。
「もし、あんたの人相書きが出回っていたら面倒だね。関所なんかで止められる虞もある。ってことは、あんたたち、船は大丈夫かい」
「船? ってことは」
「ああ。市場港から出てる巡礼舟に乗って、伊勢に抜ける。どうだい」
その手があったか、と手を叩きかけて、晋八は不安を述べた。
「でもよ、大丈夫なのか? もしも舟の上にまで追ってこられたら、逃げ場がねえぜ。それに、そうお誂え向きに舟を用意できるとは思えねえが」
「ははっ、何言ってるんだい。あたしを誰だと思ってる。博打狂いのましらだ。そのあたしが、これしきの賭けで怖じ気づくとでも思ってるのかい」
そうだった。この婆は何事をも賭けにしちまう人だった。しばらく離れていたうちに、ましらの性分を忘れていたことに晋八は不覚の念を抱いた。
それに、とましらは言った。
「賭け狂いも、成算のない賭けはしないよ」
ましらには腹案があるようだった。ならば異存はない。
「じゃあ、市場港目指して行くっきゃねえか」
「だねえ」
三人で目配せをし、頷きあった。
やるべきことが決まれば、気が楽だった。あとはそれに向かってあがけばいいだけだった。頭が単純にできている晋八は、どこかほっとしていた。
だが――。
一陣の風とともに、男が境内に現れた。
「もし」
その男――、三度笠に青と白の縞引き回し合羽という、旅人を絵に描いたような男は、笠の縁で顔を隠したまま、口を開いた。
「あんた、捨て鉢の晋八だね」
答えを聞くこともなく、その男は晋八に突進した。
晋八はましらと乙吉を突き飛ばし、腰の刀を抜いて前に踏み出し、すれ違い様、抜き打ちに反撃した。
辺りに金属音が響く。
「やるねえ」
男は、背を丸めたまま、ひゅうと口笛を吹いた。
「てめえ」
見れば、晋八の左二の腕から血が滴り落ちている。得物で肩の辺りを削がれたらしい。
しかし、晋八もやられてばかりではなかった。
長脇差の柄を握る手に、手応えが残っている。
男の三度笠を、斬っていた。
二つに割れた三度笠がはらりと落ちる。
男は振り返り、にたりと口角を上げた。だが、目だけは笑っていなかった。
その男の額から右目には、大きな古い刀傷が走っていた。その派手な傷は、これまでこの男が歩んできた道のりを何よりも雄弁に物語っている。
「久しいな、晋八」
「あー、会いたくねえ奴に会っちまった。追いつきやがるとはな。大鉈の正十郎よぉ」
Synopsisあらすじ
――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。
慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。
慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。
晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。
* * *
江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――
Profile著者紹介
1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある
Newest issue最新話
- 第五十回 【三河国編・最終回】2022.06.02
Backnumberバックナンバー
- 第四十九回 この日の浜松城下は雨が降っていた2022.05.30
- 第四十八回 先に当たった火矢のせいで火が回り2022.05.26
- 第四十七回 晋八の前に立ちはだかった者がいた2022.05.23
- 第四十六回 若い侍に、少女だった2022.05.19
- 第四十五回 少し進むと、遙か遠く2022.05.16
- 第四十四回 「同門のよしみ、ではいかぬか?」2022.05.12
- 第四十三回 帳台の向こう、板敷きの上がり間に2022.05.09
- 第四十二回 「本当に、訳がわからない」2022.05.05
- 第四十一回 その包みを片手で受け取った晋八は2022.05.02
- 第四十回 男――、大鉈の正十郎は2022.04.28
- 第三十九回 さすがのましらも頭を抱えた2022.04.25
- 第三十八回 音がしたのは、境内の方だった2022.04.21
- 第三十七回 「大鉈、ですか」2022.04.18
- 第三十六回 講武所で一時期扇斬りという修練が流行った2022.04.14
- 第三十五回 うなじの辺りを掻き、懊悩の中に2022.04.11
- 第三十四回 すると藤井は、肩をすくめた2022.04.04
- 第三十三回 「おや、青木殿。いかがなさいましたかな」2022.03.31
- 第三十二回 同時に降札騒動が勃発したというより2022.03.28
- 第三十一回 この船頭のような例は多かった2022.03.24
- 第三十回 それは、伊勢外宮御師の内山八郎太夫だった2022.03.21
- 第二十九回 御札を拾い、組頭に届けた者の息子が2022.03.17
- 第二十八回 手の中で羽根をばたつかせ、じじじじじ2022.03.14
- 第二十七回 「何が欲しい」2022.03.10
- 第二十六回 藤井は何かを堪えるような顔をして2022.03.07
- 第二十五回 一階に輪をかけて手入れの行き届かぬ2022.03.03
- 第二十四回 愕然とした。父の言葉に、ではない2022.02.28
- 第二十三回 数日前に行き会った光景について話すと2022.02.17
- 第二十二回 確かに大博打だ2022.02.14
- 第二十一回 晋八は腕を組んで考えた2022.02.10
- 第二十回 王西村で見た臨時の祭りから2022.02.07
- 第十九回 市之丞は筆を置き立ち上がると2022.02.03
- 第十八回 街道筋の安全と整備を図るため2022.01.31
- 第十七回 乙吉の姿が目に入った2022.01.27
- 第十六回 意味がわからなかった2022.01.24
- 第十五回 ふぅん、しみったれた村だね2022.01.20
- 第十四回 「ところで」市之丞は切り出した2022.01.17
- 第十三回 お前は今年でいくつになる2022.01.13
- 第十二回 だが、市之丞の気分は2022.01.10
- 第十一回 ましらが言うには2022.01.06
- 第十回 大博打ってのは2022.01.03
- 第九回 吉田宿は噂通りの大宿場だった2021.12.30
- 第八回 現れたのは、先ほど増多屋の2021.12.27
- 第七回 屋敷に下がり、降された書状を2021.12.23
- 第六回 縁側の下で跪いた少女を2021.12.20
- 第五回 そこに、一人の男が座っていた2021.12.16
- 第四回 本当の名は忘れちまったよ2021.12.13
- 第三回 ここは浜松、夜を徹して歩けば2021.12.09
- 第二回 ずいぶん負けが込んでるね2021.12.06
- 第一回 遠くに三味線の音が聞こえる2021.12.02
- 連載開始告知2021.11.29