ええじゃないか第三十五回 うなじの辺りを掻き、懊悩の中に

 うなじの辺りを掻き、懊悩の中に沈まんとしている権兵衛を前に、市之丞は決然と口を開いた。
「父上」
「む?」
「ならば、汚名を返上せねばなりますまい」
「どういうことぞ」
「知れたこと。御庭番の名を騙り吉田城に登った不埒者を、この手で捕まえればよいでしょう」
 しばし顎に手をやっていた権兵衛は、ややあって息をついた。仕方あるまいな、そう言いたげだった。
「そなたがそうしたいなら、そうすればよかろうて」
 嫌に耳に残る咳を繰り返した権兵衛は、それ以上何も言わなかった。
 こうなれば善は急げだった。さっそく吉田宿にとんぼ返りした市之丞は、定宿でお里とこれからの策を練った。
「あのように父上には見得を切ったものの――これからどうしたらよいものか」
 胡座を組んで座る市之丞は、行灯の火を眺めながら息をついた。
「えっ、若様、考えなしであられたのですか」
 宵闇の中、お里は目を何度もしばたたいている。
「ああ、そなたがいればどうにかなるかと思うたのだ」
 紛う方なき本音だったが、お里は額に手をやり首を振った後、元の氷のような表情を取り戻した。
「仕方ないですね。こうなっては」
 心なしか、声が普段よりも乾いているような気がした。何かを悟った市之丞は、恐る恐る問いかけた。「何か策はあるか」
「はっきり申し上げれば、あまり、取るべき手は残っておりません。本当なら、吉田家中に話を聞きに行くのが手っ取り早いのでしょうが、我らはあくまでお忍び。吉田家中に存在が知られては色々の差し障りがありましょう。あくまで隠密裏にことを運ぶべきかと。となると――」
「地道な聞き込みがすべて、ということだな」
「ということになります」
 お里は氷の微笑を市之丞に向けた。当然お前にもきりきり働いて貰う、そう顔に書いてあった。
 それから数日、吉田宿を中心に聞き込みを行なった。その結果、数日前、御庭番の青木を名乗る男が逗留していた安旅籠に手入れが入ったものの、結局吉田家中はその者を捕まえることが出来ず、今も探しているところだという噂を得た。吉田家中に捕まっていないだけましと考えるべきか、それともその後の足跡が追えぬことを悲しむべきか、悩むところだった。
 だが、思わぬ処から、停滞しているかに見えた事態は動き出すことになった。
 そのきっかけは、宿場町の片隅で聞き込みをしている市之丞に話しかけてきた男がもたらした。
「おや、お前、和多田市之丞ではないか」
 己の名前を言われ、半ば無意識に振り返ってしまった。
 顔見知りだった。思わず声が出た。
 黒羽織に鼠色の馬乗り袴。大小を手挟む、年の頃二十そこそこの線の細い男だった。いかにも怜悧そのものの顔を見間違えるはずもなかった。それに、頭の月代が何よりもその男の寄って立つ場を示していた。申し訳程度に剃り上げられた月代――講武所髷だ。
「まさか、藤井さん」
「数年前、顔を合わせたきりだな」
 藤井とは、講武所で机を並べた間柄だった。
 確か今年二十五だから、市之丞の四歳年上ということになる。学力優秀、容姿端麗、さらに剣の実力が凄まじかった。竹刀では市之丞と分けていたが、居合いに関しては右に出る者がいなかった。

ええじゃないか

山本祥子

Synopsisあらすじ

――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。



慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。

慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。



晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。



* * *



江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――

Profile著者紹介

1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある

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