ええじゃないか第五回 そこに、一人の男が座っていた
そこに、一人の男が座っていた。
権兵衛と同年代であろうから年の頃は六十ほど。髪は黒と白が混じり合い、灰色だった。商人髷を結い、いかにも商売者らしい柔らかい笑みを浮かべつつそこにある、細目の小男だった。
向こうがこちらに気づいた。おやおやまあまあ、と猫撫で声を発した。
「お早いお着きでございますね。お武家様はお二人でございますか」
帳台に座る小男は、どこか曰くありげにしている。
「久しいのう、増多屋」
権兵衛は、懐から文を取り出し、小男に渡した。
その中身を受け取って一瞥した小男は、帳台から身体一つ分下がって座り直し、恭しく頭を下げた。
「和多田権兵衛様、三十年ぶりでございます。そちらはご子息様ですな。ようこそ増多屋へ。私は増多屋主人、定吉でございます」
定吉は番頭に帳台を任せ、権兵衛と市之丞を奥の部屋へ招じ入れた。そこは、小さいながらも庭を備え、真新しい畳の敷かれた、上品な客間だった。
女中の持って来た茶を勧めた増多屋主人定吉は、朗らかに微笑み、首を垂れた。
「ようこそ浜松にお越しになられました」
「ここのところ、商いはどうだ」
権兵衛の問いに、定吉は朗らかに応じる。
「あまり、景気はよくありませぬなあ。和宮(かずのみや)さんの降嫁やら、将軍家茂(いえもち)公のご上洛やら、長州征伐での御出陣やら宿場は賑わいましたが、しがない旅籠にまではその賑わいは降りてきませぬからなあ。もっとも、儲かってしかるべきご本陣や脇本陣も、ありがた迷惑であったようですよ。っと、口が滑りましたなァ」
あはは、と定吉が笑った頃には、辺りに人の気配が絶えた。
すると、定吉は細めていた目を見開き、改めまして――、と切り出し、頭を下げた。
「若様は初めてのお勤めと伺っておりますゆえ、名乗らせていただきます。この地で四代目の御用町人を務めております、増多屋定吉でございます」
「ああ、よろしく頼む」
市之丞も御用町人の存在は知っていた。
御用町人とは、市井に置かれた協力者のことである。当地に溶け込み、常日頃から町の風聞を集め、時には書き残しておき、いざという時のために整理する。それが御用町人の役目である。
居住まいを正して庭先で鳴く鳥を見遣ったのち、定吉は権兵衛から預かった文を広げた。
「それにしても、命令書、拝見いたしましたが――。此度のお役目、なかなか骨の折れる内容でございますね」
「うむ、そこをなんとか、大過なく頼みたいのだ」
権兵衛の慇懃な言葉に、増多屋は困り顔を貼り付ける。
「もちろん、いざというときのため、三河一帯に網は張っておりますが......。ここのところ、今ひとつその網が上手く働かぬのです。昔のようにお役目を果たせますかどうか」
「それでは困る」
「もちろんでございます。手前も御用町人の端くれなれば、その辺り、抜かりなく」
増多屋が何度か手を叩くと、庭先に一人の少女が現れた。黒髪を結い上げ、目立たぬ紺色の着物に白の前垂れをしている。恐らくは増多屋の女中のお仕着せなのだろう。年の頃は十六、七といったところ、白い肌、見る者を逃さぬと言わんばかりの大きな瞳が印象に残る。顔こそ整っているが、その冷ややかな顔立ちは、他人を拒むような頑なさがあった。
Synopsisあらすじ
――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。
慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。
慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。
晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。
* * *
江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――
Profile著者紹介
1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある
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