ええじゃないか第十一回 ましらが言うには

 ましらが言うには、昨年、三河を含む東国全体が不作に見舞われ、どの村も余裕のない有様だという。町から町へ渡り鳥のように移って暮らす晋八からすれば、村方の作柄など遠い異国の話のようにしか聞いていなかったが、確かに去年は何を喰うにも銭を積まなければならなかった記憶があるし、今でも米ものは高くつくからと、飯の時には蕎麦やうどんを選んでいる。
「で、それでどうして不作でお伊勢参りの旅人が減るんだ」
「決まってるだろ。余裕がなくなりゃ、物見遊山に行こうなんて人も減るもんだ」
「なるほどねえ」
 この浮世は色々なものが蜘蛛の巣のように絡み合っているらしい。この広い空は、実は一つの大きな箱庭だったのだと知らされたような気がして、いい気分はしなかった。
「で、この橋に、大波が来るってのか」
「ああ、あるいはもう、来てるんじゃないかねえ」
 しばらく陽炎舞う大橋の上で待ち構えていると、一刻ほど後、吉田宿方面からこちらへやってくる男の姿が目に入った。年の頃は二十ほど、野良着のような粗末ななりをしているところから見て、村方の若衆だろう。血相を変えて橋の真ん中を駆けてゆくその男は、手に紙束のようなものを持ち、息せく合間に叫び声を上げている。最初は上手く聞き取れなかった。だが、ややあって、その言葉は明確な像を結んだ。
「王西(おうにし)村で御札が降った。伊勢外宮の御札が降ったぞ」
 男の手から、紙切れが一つ落ちた。だが、男は落とし物に気づく様子もなく、名古屋を目指して駆けていった。
 その紙切れは、縦三寸、横一寸ほどの大きさをしていた。熨斗型に折られ、表面には雄渾な筆で何事かが書かれている。その札は、しばし虚空を漂っていたものの、やがて、滑るように橋の踏み板に落ちた。
「なんだ、ありゃあ」
 呆れ半分に男の後ろ姿を眺めていた晋八を尻目に、それまで吉田城天守を見上げていた乙吉が欄干から離れ、その札を拾い上げて戻ってきた。ましらは乙吉が両手で掲げて見せるそれを眺め、ぽつりと言った。
「御札だね。伊勢外宮の御祓だ。乙吉、これ、ちと見せてくんな」
 言葉に反してひったくるように取り上げたましらは、御札をくるりとひっくり返した。裏には、内山八郎太夫の名前が付されていた。
「落とし主の名前か?」
「そんなわけあるかい。裏に書いてあるのは、この御札を配った人間の名前だよ。なるほどねえ、御札がねえ」
 ましらはくつくつと笑い始めた。だが、ややあって、高笑いに変じた。
「おい、婆、変なものでも喰ったのか」
 ひいひいと笑いを堪えながら、ましらは何度も晋八の肩を叩いた。これが笑わずにいられるか、と言わんばかりの仕草だった。
「大波が来たかもしれないね。王西村とやらに行ってみるかい。さっさと行くよ」
 そう言い捨てたましらは、ずんずんと南西を指して歩き始めた。老人とは思えぬしっかりとした足取りだった。取り残された格好となった晋八は、横の乙吉と顔を見合わせた。いつもああなのか? と目で聞くと、乙吉は、ああそうだ、と言わんばかりに頷いた。
「おめえ、女運、ねえな」
 がしがしと乙吉の頭を撫でた晋八はましらの跡を追った。
 すると後ろから、乙吉の尖った声を浴びた。
「ましらの悪口を言うな」
 これだから餓鬼は嫌いだ。晋八は口の端で吐き捨てた。


 蝉の声が遠くから聞こえた。
 吉田宿、東海道沿いにある茶屋で、御庭番、和多田市之丞は菜飯田楽を口に運んでいた。
 大根の葉と一緒に炊き込んだ飯を味噌田楽の上に乗せたもので、本当は吉田宿の西隣、御油(ごゆ)宿の名物らしい。かなり塩辛いが、歩き通しで疲れた身体には丁度いい塩梅の塩加減、かつ味噌の香ばしさも食欲をそそり、噛むごとに現れるこんにゃくの食感もなかなか癖になる。名物に旨いものなしというが、これには及第をつけてもいい。

ええじゃないか

山本祥子

Synopsisあらすじ

――それは、江戸と京を結ぶ東海道のど真ん中で起こった。



慶應三年五月。三河国浜松宿に一つの影が落ちた。無宿人の晋八。「憚りのある旅」で、江戸から逃げてきた。

慶應三年六月。同じく浜松宿に二つの影が落ちた。和多田権兵衛と息子・市之丞。この先の吉田宿に不審あり、調べるべしとの大命を携えた御庭番の親子である。



晋八は浜松で得たおかしな二人連れと、市之丞は御用町人の娘を供に、吉田宿に辿り着き、奇妙な光景を目の当たりにするのであった。



* * *



江戸時代最後の年に起こった史上最大の騒乱「ええじゃないか」。煽る者、翻弄される者、機に乗じようとする者、真理を見定めようともがく者。巨大な時代のうねりの中で、彼らが見たものとは――

Profile著者紹介

1986年東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒。第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。2013年『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビュー。著書に『蔦屋』『曽呂利!』『奇説無惨絵条々』『廉太郎ノオト』『絵ことば又兵衛』『西海屋騒動』『北斗の邦へ翔べ』などがある

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