168時間の奇跡最終回
エピローグ
午前八時――涼也が現れると、三十坪のフロアに保護犬達の要求吠えが響き渡った。
朝一番にこの子達の吠える声を耳にすると、涼也は安心した。
お腹が減ってご飯を催促するのは、身体が健康な証だからだ。
体調の悪い犬は、朝ご飯の時間になっても要求吠えをするどころか、寝そべったまま起き上がろうとしない。
「ほら、お待たせ~! 新入りさん達、朝ご飯だぞ~」
涼也は、新しく「ワン子の園」の保護犬になったフレンチブルドッグのフーガ、柴犬のケン、ラブラドールレトリーバーのピースのサークルにステンレスボウルを置いた。
ステンレスボウルに顔を突っ込み勢いよくドッグフードを食べ始める三頭の姿に、涼也は眼を細めた。
彼らは十日前に「キング犬舎」から保護した犬達で、三日前に「ワン子の園」に引き取られてきた。
一旦、Z県の「動物愛護相談センター」で保護され、獣医師の健康診断を受けてから大きな疾患がみられなかった四頭を「ワン子の園」で受け入れることにしたのだ。
華達が保護した犬は四十七頭で半数以上は病気や栄養失調で衰弱し、獣医師の治療を受けている。
今月中に「ワン子の園」の二頭の保護犬が里親に貰われて行く予定なので、サークルが空き次第新たに二頭をZ県のセンターから引き取る予定だった。
「元気になりましたね! あなた達、よかったね~、ウチにくることができて」
亜美がサークルの前に屈み、新入り達に語りかけた。
「本当だよ! ここは、名前通り犬の楽園だから。それにしても、所長、ひどいっすよ! 俺に内緒で悪党退治に行くなんて! 華さんと二人ならまだわかりますけど、達郎さんに声をかけるなら俺も連れて行ってくださいよ」
亜美の隣に屈んだ健太が、涼也を恨めしそうな顔で見上げた。
「達郎は高校時代からの付き合いだから危険な現場にも連れて行けたけど、親御さんから預かっているお前達はそういうわけにはいかない。わかってくれ」
「俺だって所長の戦友だと思ってるのに、それはないっすよ~」
健太が半泣き顔で言った。
涼也が取り押さえてからおよそ一時間後に、逮捕状を手に乗り込んできた複数の警察官に工藤は連行された。
いま工藤は留置所に拘留されているが、収監されるのは間違いない。
残された金髪女性......工藤の妻は「キング犬舎」を維持しようとしていたが、華がリークした情報番組と週刊誌に売れ残った犬にたいしての残忍な虐待を大々的に報じられ非難の的になった。
経営者が刑事事件で逮捕され、妻が虐待罪で叩かれたいま、「キング犬舎」の存続は不可能になり事実上の廃業に追い込まれた。
「工藤は百八十センチ超え、百キロ超えのプロレスラーみたいな大男だったから、お前が行ってたら多分、ちびってたぞ」
フーガ、ケン、ピースの食べ終えたステンレスボウルを下げながら、達郎が茶化すように言った。
三頭とも食欲旺盛で、保護した当時よりふっくらとして毛艶も見違えるようによくなった。
「なに言ってるんすか! この子達を守るためなら俺も心を鬼にして......」
「あ~あ、私も、所長の一本背負い見たかったな~」
健太の言い訳に被せるように、亜美が大声で言った。
「いやいや、亜美ちゃんは見なくてよかったんじゃないかな」
「どうしてですか? 私だって、所長が仮面ライダーみたいに悪党を倒しているところを見たかったですよ~」
「百キロデブくらい、俺だって高速ハイキック一撃で......」
「涼也のあんな姿を見たら、亜美ちゃん惚れちゃうからさ」
達郎が健太を遮るように、悪戯っぽい顔で言った。
「おいおい、悪乗りはそのへんにしてくれ」
涼也は、ため息を吐いた。
「そんな、私、沙友里さんを裏切るような......」
亜美が、はっとした顔で唇に手を当てた。
「え? 沙友里さんを裏切るって、どういうこと!?」
健太が、訝し気に訊ねた。
「あ......いえ、だから、違うんです」
しどろもどろに、亜美が言った。
「え? なにが違うの?」
健太が質問を重ねた。
「お前は鈍いな~。沙友里ちゃんは、涼也のことが好きなんだよ」
達郎が、ニヤつきながら言った。
「おい、達郎、いい加減に......」
「えーっ! そうなんですかー!?」
涼也の言葉を、健太の大声が掻き消した。
「ち、違いますよ! そんなわけ、ないじゃないですか!」
顔を朱に染めた亜美が、ムキになって否定した。
「だったら、なんで達郎さんがそんなことを言うんだよ!? 達郎さんが、嘘を吐いているっていうのか?」
健太が亜美を問い詰めた。
涼也は、達郎の腕を肘で小突いた。
「冗談だよ、冗談。お前、本気にしたのか?」
達郎が、からかうように健太に言った。
「マジっすか!? もう、本気にしちゃったじゃないっすか~って、そんなことより沙友里さん、本当にどうしちゃったんですかね?」
健太が、一転して不安げな表情になった。
「もう二週間以上経つのに......家にも帰っていないし、携帯の電源も切られたままだし......さすがに、心配になってきました。実家のご両親に話そうと思ったんですけど、逆に心配させるんじゃないかと思って言い出せなくて......」
亜美がうなだれた。
「華がもうすぐセンターから四頭目のシーズーを連れてくるから、受け入れが終わったら僕が沙友里ちゃんの実家に事情を話しに行くよ。もしかしたらご両親には連絡が行っているかもしれないし、行ってないなら警察に捜索願いを出すべきかどうかを相談してくるから」
涼也は、健太と亜美を交互に見ながら言った。
「さあさあ、お通夜みたいに暗い顔をしてるとこの子達に伝染するから、スマイル! スマイル! とりあえず、シーズーちゃんの名前をみなで考えよう。俺はテレビ局に勤めてるから業界っぽく、ズーシーちゃんってのはどうだ?」
ムードメーカーらしく、達郎が場の空気を明るくした。
「なんすかそれ!? 寿司をシースーって逆さにしたのと同じじゃないっすか?」
「達郎さん、いまは昭和じゃなくて令和ですよ?」
健太と亜美に、笑顔が戻った。
「ありがとうな」
涼也は達郎の耳元で囁いた。
「言葉はいらないから、ザギンのシースーを奢ってくれよ」
達郎が、道化を演じ続けた。
「お前って奴は......」
「ただいま到着しましたー!」
涼也の声を遮るようにドアが開き、華が現れた。
「あれ、シーズーちゃんは?」
達郎が、華に訊ねた。
「いまくるから」
華が、笑いを噛み殺しながら言った。
「いまくるって......」
達郎が華の肩越し......玄関に視線を移し、言葉の続きを呑み込んだ。
「あっ!」
「え!」
健太と亜美が申し合わせたように驚愕の声を上げた。
驚いたのは、涼也も同じだった。
「駐車場に車を入れたときに、建物の前をうろうろしている女性がいたのよ。だから、シーズーちゃんを抱かせて、無理矢理手伝って貰っちゃった」
華が笑顔で言った。
「所長、達郎さん、亜美ちゃん、健太君......心配させてごめんなさい。いろいろ考えたくて、一人旅していたんです」
華の背後に佇む女性......シーズーを抱いた沙友里が、涙声で言いながら頭を下げた。
「沙友里ちゃん、ズーシーの頭に血が昇るから顔を上げて」
「ズーシーって......この子のことですか?」
達郎が言うと、顔を上げた沙友里が訊ねた。
「テレビ業界っぽいだろ?」
達郎がウインクすると、沙友里の口元が綻んだ。
「沙友里さん、会いたかったー!」
「心配したんすよ!」
亜美と健太が沙友里に駆け寄った。
「本当に、ごめんね」
沙友里が泣き笑いの表情で、シーズーを健太に渡すと亜美を抱き締めた。
亜美の頭を撫でながら、沙友里が涼也に視線を移した。
また、家族になってもいいですか?
彼女の心の声に、涼也は笑顔で頷いた。
沙友里の瞳から、みるみる涙が溢れ出した。
お手柄だったね。
涼也は華に顔を向け、微笑んだ。
華が得意げな顔で、伸ばした右の前腕を左手で叩いて見せた。
涼也はペンダントロケットを握り締め、デスクの上のフォトスタンドに視線を移した。
ありがとう。これからも、この子達のことを見守ってね。
フォトスタンドの中――黒いラブラドールレトリーバーの子犬の力強い吠え声が聞こえたような気がした。
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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