168時間の奇跡第23回
6
午前八時。朝食の匂いを嗅ぎつけたフロアの保護犬達が一斉に吠え始めた。
正確に言えば、匂いではなく習慣だ。
ドッグフードを入れる前から、ステンレスボウルが触れ合う音がしただけで「ワン子の園」は賑やかになる。
「モモ、トップ、おはよう! ご飯だよ」
涼也はカゴに入った小のボウルをトイプードルのモモのサークルに、中のボウルを柴犬のトップのサークルに置いた。
二匹とも、ボウルに鼻面を突っ込み勢いよく食べ始めた。
「ビッグ。おはよう! たくさん食べて、名前に追いつくんだぞ」
先月から「ワン子の園」に新しく迎え入れた、イングリッシュポインターのビッグのサークルに涼也は声をかけながら、大のボウルを置いた。
ビッグは雄の三歳で、保護したときは痩せ細り平均体重を遥かに下回っていた。
猟師に八王子の山に捨てられ、自力で人里まで下りてきたところを通報を受けた動物愛護相談センターの職員に保護されたのだ。
哀しいかな、ポインターやセッターなどの猟犬が山に置き去りにされるのは珍しいことではない。
一部の心ない猟師は二月十五日に猟期が終われば、次に猟期の始まる十一月十五日までの九ヵ月間の飼育費と労力を惜しんで、猟犬を使い捨てにするのだ。
猟期の直前に、新しい猟犬を買ったほうが安くつくという信じられない理由だ。
スマイルがいなくなって一ヵ月が経ち、空いたサークルに迎え入れたのがビッグだった。
涼也の心の傷は癒えてはいないが、それでも「オアシス」のマスターと話して前向きになれた。
ここにいる保護犬達の将来のためにも、いつまでも葛藤したり哀しんでばかりいられない。
ビッグが、ガツガツと食べ始め二、三分でボウルを空にすると物欲しそうな顔で涼也を見上げた。
「偉いぞ。でも、一度に食べ過ぎたら胃に負担がかかって戻しちゃうからね」
涼也は、ビッグの頭を撫でつつ言った。
「メッセージを聞いたら、すぐに連絡をちょうだい」
沙友里が、トイレマットの交換をしながら誰かの留守番電話機能にメッセージを入れていた。
「どうしたの?」
涼也は訊ねた。
「今日、私が働いているペットショップでローテに入っていたトリマーが熱で出られなくなっちゃって、それで、昨夜から亜美に電話しているんですけど......」
沙友里が、困り果てた表情でスマートフォンのディスプレイをみつめた。
「出ないの?」
「はい。昨夜からずっと......」
「それは心配だね。どうしたのかな。とりあえず、沙友里ちゃんは店に出たほうがいいよ」
「でも、所長一人になってしまいます」
沙友里が、フロアを見渡した。
三十頭の保護犬達の朝食が終わったら、順番に朝の散歩に連れて行き、十時からは里親希望者の面会が始まる。
二人でようやくこなせるルーティンで、沙友里が心配するように一人だと手が回らない。
だからといって、沙友里の本業に支障が出るのはまずい。
あくまでも沙友里はボランティアであり、彼女の善意を仇で返すのは本末転倒だ。
「僕は大丈夫。なんとかするから」
「一人じゃ無理ですよ。亜美以外にも電話してみますから」
「いや、君は行ってくれ。僕のほうこそ、健太か達郎にヘルプを頼んでみるから」
「じゃあ、せめて健太君か達郎さんが到着するまでここにいます」
沙友里は、強い意志の宿った瞳で涼也を見据えて譲らなかった。
「だけど、二人の都合がついてもすぐにこられるかどうかわからないし」
「だったら、なおさらいます」
一度言い出したら聞かない頑な一面が、沙友里にはあった。
「店は十時からだったよね?」
「はい」
「じゃあ、あと一時間だけ......九時までお願いするよ」
「十時からは里親希望者が......」
涼也の肩越しに顔を向けた沙友里が、眼を見開いた。
「亜美!」
振り返った涼也の視線の先......ドア口に、パグを抱いた亜美が立っていた。
「何度も連絡したのよ!?」
沙友里が亜美に駆け寄り、咎めるように言った。
「すみません......」
消え入るような声で、亜美が詫びた。
「あんこちゃんをどうして連れてきた......あら、前足を怪我しているの?」
沙友里が、パグ......あんこの右前足に巻かれた包帯に視線を向けつつ訊ねた。
突然、亜美が泣き崩れた。
「亜美、どうしたの!?」
沙友里が、驚いた顔で声をかけた。
「とりあえず、亜美ちゃんをこっちに」
涼也は、沙友里に亜美を応接ソファに座らせるように促した。
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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