168時間の奇跡第22回
「せっかく淹れたサービスのコーヒーを、飲んで行かん気か?」
千円札を手に取り華を追いかけようとした涼也は、マスターの言葉にスツールに腰を戻した。
「今日はプリンもサービスするつもりだったから、あとで返せばいい」
マスターが自らもコーヒーを飲みながら言った。
「お気持ちはありがたいですけど、なにもかも奢って貰うのは申し訳ないです」
「勘違いするんじゃない。お前さんのためじゃない。華ちゃんのためじゃよ」
言うと、老人は不自然に白い歯を剥き出して笑った。
「では、ご馳走になります。ありがとうございます」
これ以上遠慮するのは逆に失礼に当たると思い、涼也は素直に好意に甘えることにした。
「のう、お兄ちゃん。ウチはカレーが人気の店じゃが、中でも一番注文の多いカレーはなんだと思う?」
マスターが開いたメニューを涼也の前に置き、唐突に訊ねてきた。
メニューには、ビーフカレー、チキンカレー、ポークカレーと三大カレーの名前が書いてあった。
「チキンカレーですか?」
「いいや、牛を殺して肉を刻んで入れたビーフカレーじゃ」
「え......」
マスターの生々しい説明に、涼也は二の句が継げなかった。
「因みに二位は、鶏を殺して肉を刻んで入れたチキンカレーじゃ」
ふたたび、マスターが生々しく説明した。
「......あの、その表現、残酷じゃないですか」
遠慮がちに、涼也は言った。
「ん? なんでじゃ? 事実じゃろうが? 綺麗なOLさんも、優しそうな主婦も、無邪気な小学生も、みな、殺して切り取った肉を煮込んだカレーライスを嬉しそうにガツガツ食ってるじゃろう? カレーだけじゃないぞ。ステーキもそうじゃ。牛の背肉を切り取ったサーロインやリブロースを脂が乗って口の中で蕩(とろ)けるだの、舌を引っこ抜いた牛タンを分厚くてジューシーで旨味が出てるだの、無理やり大量の餌を食べさせたガチョウやアヒルを殺して抜き取った肥大した肝臓を、着飾ったお嬢さん達が、こんなの初めて、もう死んでもいい、とかなんとか、幸せそうに食っておる。わしはなにか、嘘を言っておるか?」
矢継ぎ早に生々しい表現を連発するマスターに、涼也は戸惑った。
なぜ突然にマスターが、こんな言葉を並べ立てるのか真意を測りかねていた。
「いえ......でも、さっきから表現が残酷で......」
「その残酷なことをやっておるのが、わしら人間じゃ。生きるためにほかの動物を殺して食らう。味を楽しむためにほかの動物を殺して食らう。お洒落するためにほかの動物を殺して毛皮を剥ぐ。精力をつけるためにほかの動物を殺して酒に漬ける。どうじゃ? 人間とは、悪魔みたいな生き物だと思わんか?」
マスターは、淡々と言葉を続けた。
「そうですね。でも......」
涼也は言い淀んだ。
「でも、なんじゃ? 犬の殺処分の残酷さ、非人道的な行いを訴えているときに、でも、って言われたらお前さんはどう思う? だが、なにが違う? 人間の胃袋を満たし舌を喜ばせるために殺される牛や豚や鶏と、殺処分される犬や猫と? 違いは生きるため? そんなもん、人間の勝手な言いぶんじゃ」
マスターの言葉が、涼也の胸を貫いた。
返す言葉がなかった。
あたりまえにみながやっていることとは言え、人間の都合で生き物の命を奪っている事実に変わりはない。
「なんじゃ、そのこの世の終わりみたいな顔は? 勘違いするな。わしは、それを咎めとるわけじゃない。逆じゃ」
「え?」
「お前さんを含め、誰しも殺生はしておる。もちろん殺生を推奨しとるわけでもないが、お前さんのように死んだワンコのことを自分の責任だなんだと自責の念に駆られる必要はないと言っておるんじゃ」
「いや、でも、それとこれとは話が違いますよ」
マスターの言っていることはわかるが、涼也には自らを正当化する気にはなれなかった。
「できうるかぎりの愛情を傾けたワンコが死んだことをいつまでも引き摺るのは、わしやお前さんが食うために殺されて肉を刻まれ内臓を抜かれてる牛さんや豚さんや鶏さんに申し訳が立たんというもんじゃ。のう?」
マスターが片目を瞑った。
過激な表現だが、マスターの言葉の端々には涼也にたいしての励ましが感じられた。
「なんか......すみません。僕を気遣ってくださり、ありがとうございます」
涼也は、素直に礼を言った。
「別に、気遣ってはおらんさ。わしは、本当のことを言ったまでじゃ。あんたは、やれることはやっておるだろう。華ちゃんから、いつも聞かされておるよ。お前さんは自分を犠牲にして、保護犬達のことを二十四時間三百六十五日考えてるような人だとな。幸せそうな顔で、毎日わしはのろけられておるよ」
マスターが、掠れた声で笑った。
華が、自分のことをそんなふうに誰かに話していたとは思わなかった。
「そんなにたいしたものではありません。試行錯誤の毎日です。保護犬達のことを考え過ぎて、里親希望者にたいして審査が厳しくなってしまうんです。華に言われました。いつ殺されてもおかしくない犬猫を日常に見ている環境にいたら、どんなに里親希望者が有難いかっていうことを。思い知らされました。僕は殺処分ゼロの東京という恵まれた環境にいるから、彼女の気持ちを理解できていなかったんだと」
涼也はコーヒーを流し込んだ。
口内に広がる苦味が、いまは心地よかった。
「今日、彼女の職場を初めて訪れました。慰霊碑の前で手を合わせている華の背中を見たときに、改めてそう思いました。自分だけがやってるつもりになって、自分だけがつらいつもりになって、彼女の苦悩と葛藤を少しも......」
「ほらほら、また始まった」
自責の念に駆られる涼也を、マスターが呆れた顔で遮った。
「牛を殺して切り取った肉を焼いたり湯にくぐらせたりして食ってる人間が、犬猫を救える救えない、彼女の気持ちをどーちゃらこーちゃら自分を責めておる。端から見ておったら滑稽で仕方ないわ。いいか? わしら人間は欠陥だらけの生き物じゃ。間違いを犯しながら成長する生き物じゃ。もし神様が過ちを罪だとしているならば、人間を完璧に作ったはずじゃろう? だが、わしらを未完成のままこの世に送り出した。なぜだかわかるか? それは、失敗から学びながら私に近づきなさい......そういうメッセージなんじゃよ。完璧な人間は修行が終わり、二度と人間界に転生することはない。つまり、この世にいる人間は、どんなに立派に見えても欠陥品ということじゃ」
「欠陥品......ですか」
「そうじゃ。お前さんもしょせん、動物を殺して食ってる欠陥品に過ぎん。欠陥車がエンストするのが当たり前のように、わしら欠陥品が過ちを犯すのはあたりまえじゃ。肝心なのは、失敗から学び歩き出すことじゃ。そしてまた過ちを犯せば学び、歩き出す。そうやって、一段、一段、成長の階段を上ってゆくもんだ」
マスターが音を立ててコーヒーを啜った。
「ライオンやトラの眼が前についとるのはなんでだと思う?」
唐突に、マスターが質問してきた。
「え......」
「答えは、獲物を追うためじゃ。シマウマやシカの眼が横についとるのは、危険をいちはやく察知するためじゃ。なら、人間の眼が前についてるのも、獲物を追うためだと思うか?」
ふたたび、マスターが質問してきた。
「いや、どうでしょう......」
「前に歩くためじゃよ」
答えを模索する涼也に、マスターが言った。
「前に......」
涼也は呟いた。
マスターの言葉に、心の中の靄(もや)が晴れたような気がした。
「そうじゃ。失敗から学ぶたびにわしらは、神に近づいておるんじゃよ」
「ありがとうございます。マスターのお話を聞いて、いかに自分が狭い視野で物事を見ていたかがわかりました」
「そりゃあよかった。お前さんの開眼祝いに、カレーもサービスしてやるから食って行け。牛と豚と鶏の刻んだ肉、どれがいい?」
マスターが、意地悪っぽく前歯を剥き出し笑った。
「お気持ちだけ、頂いておきます」
涼也は苦笑いを返し、コーヒーを口にした。
不思議と、さっきより苦さを感じなかった。
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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