168時間の奇跡第19回


   ☆

「虹の橋で、楽しく遊べよ」
 健太が、アイスノンを敷き詰めた木箱に横たわるスマイルに鼻声で語りかけつつ頭を撫でた。
 虹の橋とは、人間の愛情を受けたペットが死んだあとに集まる場所......天国の少し前にあると言われている。
 陽光が降り注ぐ草地や丘陵で、病気や事故で死んだペット達は元気がよかった頃の健康体に戻り、仲間たちと戯れ合い、駆けずり回り幸福な日々を送っているという。
「所長達は、まだ、帰らないんすか?」
 泣き腫らした顔をスマイルから涼也達に向け、健太が訊ねてきた。
「ああ。もう少し、スマイルのそばにいるよ」
 涼也は、スマイルの〝寝顔〟をみつめたまま力なく言った。
「じゃあ、お先に失礼します」
 健太が頭を下げ、フロアを出た。
 それからしばらく、沈黙が広がった。
 スマイルが眠る木箱を時計回りに、涼也、達郎、沙友里が囲んでいた。
「スマイルが寂しくないように、お気に入りを探してきます」
 沙友里が席を立ち、倉庫に足を向けた。
「僕は、間違ってたのかな......」
 涼也は、無意識に呟いていた。
「あの、里親希望者のホスト君のことか?」 
 達郎が、涼也の呟きを拾った。
「ああ......」
「お前が里親を断ったあとに、新しく迎え入れたパートナーのためにホストをやめて家でできるオンラインショップを始めたって奴だろう?」
「里親失格どころか、彼は犬との生活のために職替えするような立派な青年だったよ」
 涼也は、抜け殻の口調で言った。
「たしかに、あのときは彼の判断を見誤ったかもな。だが、それは結果論であって、俺が接客していても同じことをしたと思うよ。それよりも、沙友里ちゃんも言ってただろう? スマイルは、お前のことが大好きだった。お前がスマイルを幸せにした、なによりの証じゃないか」
 達郎が、励ますように言いながら涼也の肩をポンと叩いた。
「いいや、違う。スマイルは、全力で愛してくれた。だけど、僕が注ぐ愛はスマイルだけじゃない。でも、彼だったらスマイルのためだけに......」
 涼也は、言葉を切った。
「そうかな。多頭飼いしている人の愛情が、一頭に愛情を注いでいる人に負けているとは思わないけど」
「そういうことじゃないさ。保護犬施設のオーナーは、本当の飼い主とは違うってことを言ってるんだよ」
「なんか、がっかりだな」
 達郎がため息を吐いた。
「もっと、保護犬達への愛情に自信を持っている奴かと思ってたよ。里親希望者の資格に厳しいのも、それだけこの子達を思う気持ちの強さの表れだと......そう受け取っていたのに、なんだよ、その弱気は?」
「だから、そういうことじゃないって言ってるだろう? 僕達が注ぐ愛と、飼い主が......」
「同じだよ!」
 達郎が強い口調で遮った。
「お前、本当にそんなふうに思ってるのか!? そりゃあ、たしかに俺らは常に三十頭の保護犬の世話をしなければならない。一般の飼い主に比べて、一頭の犬に費やせる時間は少ないかもしれない。だけど、この子達への想いでは負けてないはずだろう? 違うか? 自分に自信が持てないなら、この子達を二度と傷つけたくないからとかなんとか偉そうなこと言って、里親希望者を断るなよっ。自分が注ぐ愛に自信を持てないなら、この子達の可能性を奪わずに里親希望者のもとに送り出せよ! ごめんな、お前の大好きなパパを叱って」
 達郎は言い残し席を立つと、スマイルのこめかみにキスをしてフロアを出た。
 返す言葉がなかった。
 過去に断ってきた里親希望者のもとに行けなかった保護犬達は、いまもここに数頭いる。
 面接したのが自分でなければ......里親希望者のもとに送り出してあげていたなら、彼らはいま頃幸せな犬生を送っていたのかもしれない。
「これ、スマイルと一緒に旅立たせてもいいですか?」
 数分ほどして、倉庫から沙友里が段ボール箱を抱えて戻ってきた。
 箱の中に入ったサッカーボール、テニスボール、ロープ、フリスビーを見て、涼也の目頭が熱くなった。
 どれも、スマイルが好きなおもちゃばかりだった。
「いいよ。さあ、君もそろそろ帰らないとね。終電は、まだあるのか?」
 涼也は、沙友里に訊ねた。
「達郎さん、帰り際に言ってました。あいつに十字架を背負わせたくないから、厳しく言い過ぎたって」
 沙友里が、スマイルが眠る木箱の中にお気に入りのおもちゃを並べながら言った。
「いや、本当のことだから。僕がこの子達のためにと思ってやっていることが、逆に不幸にしているんじゃないか......そう考えていたところだよ」
 良心の呵責を感じているわけでも、罪悪感の波に溺れているわけでもない。
 涼也は、自らの考えに確信を持てなくなっていた。
「もしそうだとしたら、スマイルは最期の瞬間に所長の腕の中には行きませんよ。スマイルのためにも、これまで通りに強い信念を持った所長でいてください。私は、その里親希望者の方にお会いしたことはありませんけど、これだけは自信を持って言えます。スマイルは、所長に見守られながら虹の橋に行けたことが一番の幸せだったと......。すみません、生意気を言っちゃって」
 沙友里が、恥ずかしそうに頭を下げた。
「......ありがとう」
 涼也は、無意識のうちに黒いラブラドールレトリーバーの子犬の遺骨が入ったペンダントロケットを握り締めていた。
「前から思っていたんですけど、そのロケット、とても大切にしていますよね」
 沙友里が、涼也のロケットをみつめていた。
「ああ。過去から眼を背けないために、つけているんだ」
「え? どういう意味ですか?」
「いや、なんでもないよ。さあ、もう遅いから帰ったほうがいいよ」
「あっ、話を逸らしましたね! ずるいですよ! 所長は、どうされるんですか?」
 沙友里が笑顔で睨み、訊ねてきた。
「今夜は、スマイルと一緒にいようと思う」
「わかりました。ちゃんと、身体を休めてくださいね。所長が元気で仲間達といることが、スマイルの願いですから。今度、ペンダントの話を聞かせてくださいね! では、お疲れ様でした」
 沙友里がふたたび頭を下げ、踵を返した。
 いまは一人になって、じっくりと考えたかった。
 沙友里が邪魔なわけではない。
 彼女の労りの気持ちが、つらかった。
 優しい言葉をかけてもらう資格など、自分にはない。
「本当に僕で......」
 涼也はスマイルに語りかけた言葉の続きを、呑み込んだ。

   5

 涼也は、「Z県動物愛護相談センター」の敷地内にバンを乗り入れると建物の前で停車した。
 スマイルが旅立って三日が過ぎた。 
 昨日、葬儀も終わり、スマイルは小さな骨壺に入って「ワン子の園」に戻ってきた。
 涼也のペンダントトップのロケットが、二つになっていた。
 まだ、当分の間は、哀しみから抜け出せそうにもなかった。
 だが、クヨクヨしてばかりはいられない。
 涼也は、スマイルのためにも新たな第一歩を踏み出すと決めた。
「ワン子の園」の子供達の犬生を預かる立場として、痛ましい現実から背を向けるのはやめにした。
 華が異動になってから新しい職場を訪れるのは、初めてのことだった。
 涼也は、スマートフォンのデジタル時計に視線を落とした。
 AM11:50――昼休みに入る時間を狙い、訪れたのだ。
 予め電話を入れなかったのは、避けられる恐れがあったからだ。
 車の気配を察したのだろう、犬達の吠える声が風に乗って聞こえてきた。
 無意識のうちに、避けていた――眼を逸らしていた。
 東京都と違いZ県のセンターは、一定期間を過ぎても引き取り手のない犬や猫は殺処分されてしまう。
 悲痛な現実を正視することを、恐れている自分がいた。
 だが、そんな耐え難い現実を華は、毎日目の当たりにしているのだ。
 
 ――殺処分に携わる私達が、仕方のないことだと割り切っていると思っているの!?

 あの日、華が「ワン子の園」を訪れて以来、彼女とは顔を合わせていなかった。
 涼也はバンを降りると、建物の正面玄関に向かった。

168時間の奇跡

画・伊神裕貴

Synopsisあらすじ

36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。

今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。

Profile著者紹介

新堂冬樹(しんどう・ふゆき) 

大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。

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