168時間の奇跡第36回

「その子犬達が、スタッフにも内緒で立ち入り禁止の部屋で飼われていたという事実は、長谷社長への疑いが深まってしまうね」
「なにか事情があるのかもしれません。疑いを晴らすためにも、私が華さん達に協力したこと、ここで子犬達が飼育されていたこと、スタッフは知らされていなかったことを真理子社長に伝えて構いません」
 沙友里が、唇を引き結んだ。
「潔白でも、長谷社長は君を解雇したりせずに許してくれるという自信があるんだね?」
 涼也が訊ねると、沙友里が頷いた。
「気持ちはありがたいけど、沙友里ちゃんの証言はいらないわ」
 それまで黙っていた華が口を開いた。
「気を使わないでください。私は......」
「気を使っているわけじゃないのよ」
 華が沙友里を遮った。
「じゃあ、どうしてですか?」
 沙友里が、怪訝そうな顔で訊ねた。
「あくまでも、長谷社長がクロだという前提での話だけど、沙友里ちゃんの証言があっても、スタッフに負担をかけないために自ら世話をしていたと言われればそれ以上の追及はできないわ」
「そうだとしても、隠す必要ないじゃないですか」
「社長が世話をしているとあなた達に知られれば気を使わせてしまうから、内緒にしていたと言えばそれまでよ。ケージに閉じ込められているという以外は、新しい貰い手が決まるまでの間、利害抜きで世話をしていたと言っても通用する説得力のある飼育状態だから。夜、散歩に連れ出していると言えばツッコミどころは一つもなくなるわ。虐待どころか、むしろ、長谷社長は心優しい動物愛に満ちた人、というふうに人々は思うでしょうね」
 淡々とした口調で沙友里に説明する華を見て、涼也は自らの甘さを痛感した。
「だったら......真理子社長は本当に、そうしている可能性もありますよね?」
 縋(すが)るような瞳で、沙友里が華をみつめた。
 やはり、真理子のことを信じたいのだろう。
「とりあえず、話の続きはあとにしてここを出よう。もう、チェックは終わったよね? 体調に問題ある子はいた?」
 涼也は二人に訊ねた。
「私のほうは問題なしよ」
「私がチェックした子も大丈夫です」
 涼也は二人の返事を聞くと、ケージの位置を元通りにした。
「行こうか」
 華に続き、沙友里と涼也も部屋を出た。
「カンナちゃんって子は、あとどのくらいで戻ってくるの?」
 トリミングルームに戻ってきた涼也は、沙友里に訊ねた。
「あと十分くらいだと思います」
「ここだと疑われるから、さっきみたいに子犬を見ているふりをしてフロアで話そう」
 言い終わらないうちに、涼也はトリミングルームから販売フロアに移動した。
「さっきの君の質問にたいしての僕の感想は、可能性はゼロじゃないけれど、あの子達が十分な散歩をさせて貰っていたとは思えないな」
 ジャックラッセルテリアのケージの前に立った涼也は、話の続きを再開した。
「どうしてですか?」
「僕がチェックした三頭とも大腿部の筋肉が未発達だったし、肉球がつるつるしていたんだ。毎日散歩している犬の大腿部にはもっと筋肉がついているし、肉球も傷がついてザラザラしているものだから」
「私の診た四頭も同じだった。沙友里ちゃん。残念だけど、長谷社長の貰い手がみつかるまで世話をしていたっていう言葉は信じられないわ。本当にあの子犬達のことを考えているなら、あんな狭いスペースに隠して飼うより、利益にはならなくても里犬ボランティアに持ち込むはずでしょう? それに、あなたが『ワン子の園』でボランティアをやっているのを知っているんだから」
 華の言葉に、沙友里が唇を噛んで俯いた。
 本当は、彼女もうすうす感づいているのかもしれない。
 しかし、最悪の真実を受け入れる心の準備ができていないのだろう。
「これから、どうするつもり?」
 涼也は、華に訊ねた。
「金庫室にいる子犬達が、獣医学部の手術の練習用として大学病院に引き渡されるために飼育されているという証拠を押さえなきゃね。あ、ごめんね。あくまでも、通報が本当だったらと仮定しての話だから」
 明らかにショックを受けている沙友里に、慌てて華は取り繕った。
「大丈夫です。あの子犬達の存在を知った以上、私も真相を知りたいです」
 懸命に平静を装い、沙友里が言った。
「証拠を押さえるって、どうやって?」
 涼也は話を進めた。
 まもなくカンナが戻ってくるので、ゆっくりはしていられない。
「長谷社長を尾行するわ」
「尾行!?」
 涼也は素頓狂な声を上げた。
「ええ。ここの営業時間が終わったら、長谷社長は子犬達の世話に現れるはずよ。そのあと、なにかのアクションがあるかもしれないでしょう?」
「子犬をどこかに移動させるってこと?」
 華が頷いた。
「そんなにタイミングよく、移動させるかな?」
「もちろん、毎日通い詰めるつもりよ。いつかは、必ず移動させるはずだから」
「子犬達をどこかに運び出すまで、毎晩、張り込むつもりかい?」
 ふたたび、華が頷いた。
「営業時間前にも、運び出す可能性があるんじゃないかな」
 涼也は、懸念を口にした。
「そのときは、私が尾行します」
 沙友里が、意を決した表情で口を挟んだ。
「え!? あなた、それで平気なの?」
 すかさず、華が訊ねた。
「はい、大丈夫です。毎日早めに来て、外から見張っています」
 力強く、沙友里が即答した。
「その気持ちは嬉しいけど、君は開店準備や仕事があるから、店を離れられないだろう?」
 涼也は疑問をぶつけた。
 切れ目なくトリミングが続けば、尾行どころか休憩も取れないはずだ。
「今月は、私がこっちのローテーション入っているときは亜美ちゃんが『ワン子の園』に入っています。真理子社長が子犬達を連れ出したら亜美ちゃんに連絡を入れて、私はあとを追います。所長は、彼女を『Dスタイリッシュ』に行かせてください。中野から代官山なら、タクシーで三十分もあれば到着します。そのくらいなら、予約時間をずらしても平気です」 
 沙友里が、気丈に言った。
「わかった。じゃあ、そのときは僕が車で亜美ちゃんを『Dスタイリッシュ』に送り届けるよ。それから、夜は僕も一緒に張り込むから」
 涼也は、沙友里から華に視線を移した。
「いいの? そんなことまで頼んじゃって?」
 華が、申し訳なさそうな顔を向けた。
「もちろんさ。あの子犬達の命に関わる問題かもしれないんだから」
「なんか......すみません......」
 沙友里が鼻声で言うとうなだれた。
 彼女の足もとの床に、滴が落ちて弾けた。
「君が悪いわけじゃないから、謝る必要はないよ」
「そうよ。沙友里ちゃんはなにも悪くないわ」
 涼也と華は、沙友里に励ましの言葉をかけた。
 慰めではなく、彼女に責任はない。
「いいえ。目と鼻の先にあの子達がいることに気づかずに......私がもっと早くに気づいてあげていたら......」
 沙友里の声が嗚咽に呑み込まれた。
「目的はさておき、水も餌も与えられているし室内温度も保たれている。子犬達の容態がすぐにどうこうなる劣悪な環境じゃないから。僕達がいまやるべきことは、自分を責めることじゃない。真相を究明して、長谷社長が通報通りの悪行を働いているかどうかを一刻も早く突き止め、もしそうだったら......間違いを正し子犬達を救うことだよ」
 涼也は、沙友里に言い聞かせるのと同時に自らを戒めた。

168時間の奇跡

画・伊神裕貴

Synopsisあらすじ

36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。

今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。

Profile著者紹介

新堂冬樹(しんどう・ふゆき) 

大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。

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