168時間の奇跡第20回

「あの、すみません」
 建物から出てきた白髪交じりの職員らしき中年男性に、涼也は声をかけた。
「はい、なんでしょう?」
 中年男性が足を止めた。
「小寺華さんは、いらっしゃいますか?」
「失礼ですが、どちら様ですか?」
「あ、華さんの友人の沢口と申します」
「もしかして、保護犬施設の方ですか?」
「え......はい、そうですけど、どうしてそれを?」
 涼也は質問を返した。
「小寺君から、よくあなたのお話を聞かされています。私の婚約者は、日本一の犬バカだって」
 言って、中年男性が朗らかに笑った。
 下膨れの頬に笑うとなくなる柔和な目は、七福神の布袋(ほてい)様のようだった。
「申し遅れました。私、センター長の酒井です」
 中年男性......酒井が名刺を差し出してきた。
「華がお世話になっています。改めまして、『ワン子の園』の沢口と申します」
 涼也も、名刺を差し出した。
「いやいや、非常に優秀な働きで、助けられているのは私のほうですよ。小寺君は、裏庭にいるはずです」
「裏庭?」
「ええ。いま、ご案内します」
 酒井が、建物の脇の細い通路に入った。
 涼也はあとに続いた。
 ほどなくすると、屋根付きの広いサークルが現れ、五頭の犬が涼也を認めると柵に駆け寄ってきた。
 涼也は足を止めた。
 五頭とも、柴犬より一回り大きな中型犬の雑種だった。
「この子達はね、保護期限の過ぎたワンコです」
 涼也の心を見透かしたように、酒井が言った。
「でも、保護期限が過ぎたら......」
 口に出かけた疑問を、涼也は呑み込んだ。
「はい、規則では殺処分することになっています。でもね、たとえ数日でも一緒に過ごしたこの子達の命を奪うのは心が痛みます。だから、こうやって規則を破ることもあるんですよ」
 酒井の眼が、糸のように細められた。
 穏やかな口調だが、彼の言葉は涼也の胸を貫いた。
「一日でも、一時間でも、時間稼ぎをしたいんです。悪足掻(わるあが)きかもしれないんですけど、もしかしたら、里親やあなた達みたいな保護犬施設の方が現れるんじゃないかってね。しかし、東京都と違ってZ県にはそういった施設の数も少なくて、その上、雑種の成犬ですからなかなか難しくて。悪足掻きにも限界があります。一部の運のいい子を除いてほとんどの子は、数週間寿命が延びただけの話なんですがね。でも、〇・一パーセントでも可能性のあるかぎり、奇跡を諦めたくないんですよ。普通に犬生を全うさせてあげたいというあたりまえのことを、奇跡なんて表現しなければならないんですから、たまらないですね」
 穏やかな笑みを湛える酒井の眼に、うっすら光るものが見えたような気がした。
 
 ――一頭、二頭、三頭......殺処分される犬猫を目の当たりにしているうちに、一頭目のときに心に受けた衝撃を、百頭目のときも感じることができるかが心配なんだ。

 ふたたび脳内に、華に投げかけた言葉が蘇った。
 殺処分が行われているという理由だけで、決めつけていた。
 彼らに責任はない、彼らも苦悩していると頭では理解していたが、心の奥底で釈然としない思いが澱(おり)のように溜まっていた。
「この子がケイジ、ハリウッド俳優のニコラス・ケイジに似てるから」
 酒井が柵越しに鼻面を撫でる焦げ茶色の被毛のケイジは、両目の上にゲジゲジ眉のような黒い斑点があった。
「この子は吠え声が低いからアルト、この子はウチにきたときが十二月二十四日だったからイヴ、この子は......」
 一頭、一頭の名前の由来を語りつつ紹介する酒井の彼らに注がれる眼差しは、「ワン子の園」のボランティアと同じだった。
「すみませんでした」
 無意識に、思いが口に出ていた。
「え?」
 酒井が、怪訝そうな顔で振り返った。
「僕、殺処分を行っている動物愛護相談センターに対して先入観を抱いていました。どうして、正視できるんだろう......もしかしたら、慣れというものがあるのかなって。本当に、すみません」
 涼也は、弾かれたように頭を下げた。
「頭を上げてください。あなたは、小寺君から聞いた通りの実直な方なんですね」
 酒井が、微笑んだ。
「え......華がそんなことを?」
「ええ、私の婚約者は、損得を考えないで自分の信念に向かって突き進む鉄の猪みたいな人だってね」
 おかしそうに笑いつつ、酒井が言った。
「いや、そんなに強い信念なんてありませんよ」
 本音だった。
 保護犬達にたいしての向き合いかたに自信を失っている自分は、鉄どころか粘土細工の猪だ。
「本当に強い人は、みな、そうやって否定するものです。強がっている人ほど、傷つきやすく繊細な心の持ち主ですよ。あなたの、婚約者さんみたいにね」
「えっ、それはどういう意味ですか?」
「行けばわかります」
 意味深に言い残し、酒井が歩を踏み出した。
 わけがわからず、涼也は酒井の背中に続いた。
 酒井が建物の角を曲がり、足を止めると前方を指差し涼也を振り返った。
 涼也は、酒井の指先を追った。
 十メートルほど先に屈んでいる女性の背中......華の背中が見えた。
 声をかけようとした涼也に、酒井が唇に人差し指を立てて見せた。
 華は、一メートル四方の石碑に向かって手を合わせていた。
 涼也は、背伸びをして華の肩越しに......石碑に視線をやった。
「慰霊碑......」
 涼也は、石碑に刻んである文字を口にした。
 慰霊碑の周囲には、花が添えられていた。
「ここで殺処分されたり、怪我や病気で亡くなった動物達のお墓です。毎日、小寺君は昼休みの時間にああやって、花を替えてお参りしているんですよ」
 潜めた声で、酒井が言った。
「毎日ですか?」
 涼也も、囁き声で訊ね返した。
「ええ、毎日です。ここに異動してきてから、雨の日も欠かしたことはありません。長いことこの仕事をやっていますが、彼女みたいな職員は初めてです」
 婚約者を褒められた嬉しさより先に、罪悪感に襲われた。

 ――つまり、私が犬猫の殺処分に麻痺して、あたりまえのことのように受け止めないかを心配してくれているってわけね?
 ――気を悪くしないでほしい。それが、人間だから。でも、人間に免疫ができても、処分される犬や猫はそうじゃない。犬猫にとっての事実、信頼している人間に手放され、結果、命を奪われる。人間側の葛藤は、残念ながらこの子達には通じないんだ。

 脳裏に蘇る自らの言葉に、涼也は拳を握り締めた。
 愚かすぎる......涼也は、唇をきつく噛んだ。
 心を寄り添わせているつもりだった――華を一番理解しているのは、自分だと思っていた。
 呆れた思い違いだった。
 殺処分ゼロの東京都からZ県の動物愛護相談センターに異動になり、犬や猫の死が日常になっていた華の苦しみなど、少しもわかっていなかった。

「あんなに素晴らしい女性と人生を共にする沢口さんは、本当に幸せ者ですね」
 酒井の言葉が、耳を素通りした。
「さあ、私達も一緒に供養を......」
 足を踏み出しかけた酒井の腕を、涼也は掴んだ。
「どうしました?」
「僕、急用を思い出しましたから帰ります」
「じゃあ、せっかくいらっしゃったのですから、顔だけでも見せてあげてください。小寺君も、喜ぶと思います」
「いえ、却って気を遣わせてしまいますので、このまま失礼します。彼女には、僕がきたことを言わないで貰えますか?」
「あ、はぁ......わかりました」
 酒井が、訝しげな顔で頷いた。
「ありがうございます。それでは、これで」
 踵を返した涼也は、逃げるようにその場をあとにした。
 駐車しているバンまで走った。
 華に、合わせる顔がなかった......言葉をかける資格もなかった。
 ドライバーズシートに乗り込んだ涼也は、シートに倒れるように背中を預け眼を閉じた。
 瞼の裏に、スマイルの顔が浮かんだ。
 いつもの笑顔ではなく、なにかを訴えるような瞳で涼也をみつめていた。
「わかったよ......」
 涼也は眼を開けると勢いよくシートから起き直り、ふたたびバンを降りるといまきた道を全速力で引き返した。
 スマイルと約束したのだ。
「ワン子の園」の子供達の犬生を預かる立場として、痛ましい現実に背を向けないことを......。

168時間の奇跡

画・伊神裕貴

Synopsisあらすじ

36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。

今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。

Profile著者紹介

新堂冬樹(しんどう・ふゆき) 

大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。

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