168時間の奇跡第34回
☆
「いらっしゃいませ......あ、おはようございます。今日は、どうしたんですか?」
涼也が「Dスタイリッシュ」のドアを開けると、子犬達の吠え声の中、ケージのトイレシートを交換していた沙友里が打ち合わせ通りの対応で出迎えた。
「近くに用事があったから、ちょっと寄ってみたんだ」
涼也も打ち合わせ通りの言葉を口にしながら、販売フロアに足を踏み入れた。
こぢんまりした縦長の空間の両サイドの壁に埋め込まれたケージは、上段、中段、下段にそれぞれ三頭......計十八頭の子犬がいた。
トイプードル、チワワ、ミニチュアダックスの人気御三家に加え、シーズー、ポメラニアン、ヨークシャーテリアなどの昔ながらの定番の愛玩犬、マルプー、チワックスなどのミックス犬が販売されており、中型犬ではラブラドールレトリーバーとゴールデンレトリーバーの子犬がいた。
血統がいい子犬を揃えているらしく、どの犬種も三十万円以上の値がつけられていた。
もう一人の女性スタッフは、ガラス越しのトリミングルームでトイプードルのカットをしている最中だ。
「わぁ、かわいいわね! この子はなんの犬種?」
華が、トリミングルームから離れた入り口近くのケージに歩み寄りながら沙友里に訊ねた。
もちろん、子犬の犬種を訊くのが目的ではない。
「この子は、ラブラドゥードルと言って、ラブラドールレトリーバーとプードルのミックスです。最近、人気なんですよ」
沙友里が、笑顔で説明した。
涼也はケージの子犬を熱心に見ているふりをしながら、トリミングルームの女性スタッフから沙友里と華が死角になるような位置に立った。
「単刀直入に訊くけど、金庫室の鍵は誰が持っているの?」
華が囁き声で訊ねた。
「鍵は社長が持っています」
沙友里も囁き声で返した。
「そうよね」
わかってはいたことだが、華がため息を吐いた。
「でも、スペアキーのある場所は知っています」
「スぺ......スペアキーがあるの?」
上がりかけた声のボリュームを絞り、華が質問を重ねた。
「はい。以前、掃除をしているときに偶然に発見したんです。もしかしたらほかの部屋の鍵かもしれませんが、それならわざわざ隠さないと思うんです」
「たしかに、そうね。スペアキーはどこにあるの?」
もう一人の女性スタッフはトリミングに集中しており、こちらの様子はまったく気にしていなかった。
「壊れて使っていない業務用のドライヤーが一台あるんですが、その中です」
「ドライヤー?」
「ええ。壊れているから誰も触りませんし、でも、社長が店をオープンさせたときから使っていたものなので愛着があって......それで、私が毎日お手入れをしているんです」
沙友里が、嬉しそうに言った。
「なるほど、スペアキーの隠し場所としては最適ね。そのスペアキー、手に入る?」
華が、さらに声のボリュームを落とした。
「カンナちゃんがいないときなら、ドライヤーから取り出せますけど......もしかして、金庫室に入るつもりですか?」
沙友里が、怖々と訊ねた。
「そのつもりだけど、やっぱりまずいよね? あとから、社長に沙友里ちゃんが怒られるものね」
「私は平気です。華さんに協力すると決めてから、社長に怒られるのは覚悟の上です。でも、真理子社長は虐待なんてしていないと信じているし、それを証明するために華さんに協力しているので、きっとわかてくれると思います。私が心配しているのは、所長と華さんのことです」
「私達の?」
「はい。金庫室に入れば不法侵入になりますよね?」
「そうね。虐待に関する証拠や手がかりがなにもなかった場合は、長谷社長に事情を話した上でお詫びするつもりよ」
華が即答した。
令状なしの立ち入り検査が空振りに終わった場合、華は動物愛護相談センターからなんらかの処分を下されるのは間違いない。
長谷社長の出方次第では、最悪、懲戒免職ということもあり得る。
正直、華にとっては危険な賭けだ。
動物を救うことを最優先し、自らの立場は後回しにする......それが、華という女性だ。
「そうですか。わかりました。ただ......」
沙友里が言葉を切り、トリミングルームのカンナに視線を移した。
「彼女のトリミングは、いつ終わるの?」
涼也は訊ねた。
「カットはもうすぐ仕上げ段階に入りますけど、シャンプーして乾かして......あと、一時間はかかると思います」
「一時間か......それまでに、ほかに誰か出勤してくる予定は?」
「スタッフは夕方まで私達二人ですけど、あの子のトリミングが終わるまでにはほかに二頭の予約の子がきます」
「そしたら、二人とも手が空かなくなるってわけね」
華が言うと、沙友里が頷いた。
「店が暇なのはいまの時間帯だけで、夕方まで予約のお客様が入っているんです」
「なにか、いい方法はないかな......」
涼也は思案した。
もたもたしているうちに、予定外に真理子が現れないともかぎらない。
「私に考えがあります。任せてください」
そう言い残し、沙友里がトリミングルームに戻りカンナに話しかけた。
カンナはトリミングの手を止め、遠慮がちに顔の前で手を振っている。
沙友里がカンナに笑顔でなにかを言いながら、鋏を受け取った。
カンナが沙友里に頭を下げ、トリミングルームの奥へ消えた。
ほどなくして、エプロンを外したカンナが現れトリミングルームから出てくると、涼也と華に会釈をして外に出た。
ガラスの向こう側から、沙友里が手招きしていた。
涼也と華は顔を見合わせ、トリミングルームに入った。
「彼女は、どうしたの?」
華が訊ねた。
「このあと予約客が夕方まで続くから、少し早いお昼休憩を取ってきてと言いました。最初は遠慮していましたが、私はダイエット中で昼抜きだと言ったらうまくいきました。あと一時間は戻ってこないので、その間は大丈夫です。この子を、お願いします」
沙友里がトリミング中のトイプードルを涼也と華に預け、フロアの片隅の業務用のスタンドドライヤーのほうに向かった。
沙友里は、吹出口のノズルカバーを回転させていた。
何回か回すとノズルカバーが外れ、沙友里が吹出口に手を差し入れていた。
「取れました」
沙友里が、右手に摘まんだスペアキーを掲げつつ小走りに駆け寄ってきた。
「ありがとう。このお礼は、ちゃんとするから」
華がスペアキーを受け取り、感謝の意を伝えた。
「いえ。お礼なんて、とんでもありません。社長の潔白を証明したいという、私の思いもありますから。それより、早くしたほうがいですよ。金庫室は、そこのドアを出て通路を右に曲がった突き当りにあります」
沙友里は華と涼也にドアを指差し言うと、トイプードルのトリミングを再開した。
平静を装ってはいるが、内心、不安と動揺で穏やかではないはずだ。
「行きましょう」
華が涼也に目顔で合図した。
トリミングルームを出ると沙友里の言う通りに細長い通路があり、右の突き当りにスチールドアが見えた。
涼也は、華の後に続いた。
ドアの前で立ち止まった華が、涼也を振り返った。
「涼ちゃんは、誰かこないかここで見張ってて」
涼也は無言で華のスペアキーを奪った。
「ここまできて、僕を外す気かい?」
涼也は、笑顔で言った。
「金庫室には、間違いなく防犯カメラがあるでしょう。これは動物愛護相談センターにきた通報で、涼ちゃんが責任を負う必要はないわ」
華が言いながら、スペアキーを催促するように右手を出した。
「僕は、婚約者だけに罪を被せるような男にはなりたくないよ」
涼也は微笑みを残し、華に背を向けるとシリンダーにスペアキーを差し込んだ。
スペアキーを回すと、解錠音がした。
やはり金庫室のスペアキーで、間違いないようだった。
涼也は華に頷き、ドアを引いた。
かなり重いドアだ。
体重を後方にかけると、軋みつつドアが開いた。
防音仕様なのだろう、普通のドアより厚みがあった。
「これは......」
トリミングルームと同じくらいの空間に広がる光景を見て、涼也は絶句した。
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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