168時間の奇跡第21回
☆
Z県動物愛護相談センターの敷地を出た華は、早足で通りを歩いた。
慰霊碑の前で涼也を認めた華は、酒井に近所のカフェに行くことを告げ涼也を促すように歩き始めた。
涼也にたいしては声をかけるどころか、視線を合わせようともしなかった。
やはり、華は怒っているのだろう。
彼女の葛藤を慮(おもんぱか)ることもせず、非難めいた言葉を浴びせかけた自分を許せないと思うのも無理はない。
華が入ったのは、五十メートルほど離れた場所にある「オアシス」というレトロな喫茶店だった。
少し躊躇(ためら)ったが、涼也もあとに続いた。
「いらっしゃい。昼休憩の時間にくるなんて、珍しいのう」
カウンターの奥から、白髪のポニーテイルに白い葉巻髭を蓄えたマスターが華を認めて目尻の皺を深く刻んだ。
臙脂(えんじ)色のソファ、古ぼけた木のテーブル、ステンドグラス風のランプ......十坪そこそこの店内は、昭和レトロな雰囲気に満ち溢れていた。
「あら、仕事終わりにしか、きちゃいけないんですか?」
華は言いながら、カウンターの一番奥に座った。
華のリラックスした口調で、マスターに気を許していることが窺えた。
「相変わらずのじゃじゃ馬じゃのう。いつものでいいかな?」
「お願いします」
華とマスターの以心伝心ぶりに、涼也は軽い嫉妬を覚えた。
「ところで、所在なげに立っているそこのお兄さんは、華ちゃんのお連れさんかな?」
マスターが、入り口に立つ涼也に視線を移しつつ華に訊ねた。
「なにしてるの? 座れば?」
振り返らずに、華が言った。
涼也は、華の隣のスツールに腰を下ろした。
「はい、どうぞ。いつものやつ」
マスターが、華の前にプリンを置いた。
コンビニエンスストアで売られているような白っぽいタイプではなく、茶色がかった濃厚そうな昔ながらのプリンだった。
「お兄さんも同じものかな?」
マスターが、涼也に注文を訊ねてきた。
「え......いや......僕は......」
「ここのプリンは最高だから、食べておいたほうがいいわよ。それに、甘いものは疲れを癒してくれるから」
華が言いながら、スプーンで掬(すく)ったプリンを口もとに運んだ。
「じゃあ、僕も同じのください」
正直、いまは甘い物を食べたい気分ではなかったが、せっかく華が勧めてくれるので注文することにした。
「忌み嫌っている私の職場を訪ねてくるなんて、どういう風の吹き回し?」
「忌み嫌ってなんかいないさ。でも、ごめん。僕が悪かったよ」
涼也は、素直に詫びた。
「急にどうしたの? 私が慰霊碑で祈っていたのを見たから?」
相変わらず、華は涼也のほうは見ずに質問を重ねた。
「正直、それもある。君の苦しみもわからずに、ひどいことを言ってしまったよ」
「私が殺処分された子達の慰霊碑の前で手を合わせていたから、謝るの? 自分への罪悪感を和らげるために、そうしているかもしれないでしょう?」
「え......」
「もちろんそんなことはないけれど、そうしている私を知らなくても、わかってほしかった」
華が、寂しそうに言った。
「そうだね。いまでも殺処分される犬や猫がいるという事実にばかり囚われ、憤りや焦りに翻弄されて君の心情を察することができなかった。本当に、ごめん」
「そんなふうに何度も謝られていると、私が怖い女みたいだからやめてよ」
「ごめん」
「ほら、また」
華が、涼也を軽く睨みつけてきた。
「おやおや、怖い女と違うのかな?」
マスターがからかうような口調で言いながら、涼也の前にプリンを載せたガラスの器を置いた。
「もう、マスターまでひどいわね」
華が、頬を膨らませて見せた。
なぜ、彼女がここに通っているのかわかるような気がした。
人を食ったような惚けた感じのある老人だが、マスターを見ていると不思議と癒される。
華も、この店にくることで精神的均衡を保っているのかもしれない。
「しようがないから、鈍感な婚約者を許してあげる。でも、一つだけ条件があるわ」
「なんだい?」
「はい、あ~んして」
華が、涼也のプリンを掬ったスプーンを口もとに運んだ。
「それはちょっと......」
涼也は、マスターの眼を意識して言った。
「わしなら、眼が見えんから安心せい」
サイフォンにコーヒー豆を入れつつ、飄々とした口調でマスターが言うと片目を瞑った。
「いや、でも......」
「あ、許して貰えなくてもいいんだ?」
「わかったよ」
涼也は、スプーンのプリンを口にした。
濃厚で懐かしい味のプリンに、心が安らいだ。
甘い物が人を幸せな気持ちにするというのは、どうやら本当のようだ。
「どうだ? ウチのプリンはうまいじゃろう?」
得意げに訊ねてくるマスターに、涼也は笑顔で頷いた。
「最近、なにかあった?」
異変を察したように、華が涼也の顔を覗き込んできた。
「どうして?」
「だって、私が異動になっていままで一度もこなかったのに、いきなり訪ねてくるからさ」
「うん......」
涼也はプリンのスプーンを置き、呼吸を整えた。
「なによ? もったいぶらないで......」
「一昨日の夜......スマイルが虹の橋に旅立ったよ」
「え......」
華が表情を失った。
「先生の話では、死因は敗血症......散歩中に細菌感染した可能性が高いと言ってたよ。スマイルは僕の腕の中で、最期はとびきりの笑顔をみせてくれた。里親を見つけてあげられないまま、施設で死なせたことが申し訳なくて......」
涼也は、震える語尾を呑み込んだ。
スマイルが亡くなって三日......胸奥に封じ込めていた懺悔の念が、華に話したことで噴出した。
きつく奥歯を噛み締めた――唇を引き結び、涙を我慢した。
目の前に、コーヒーが置かれた。
「これ......」
「サービスじゃよ。甘いもののあとは、苦いものにかぎる。逆もまた然り。人生も、そんなことの繰り返しじゃ」
マスターが、目尻の皺を深く刻んだ。
さりげない一言が、胸に染み渡った。
「そういうところ、直したほうがいいわよ」
華が、涼也のほうに身体を向けて言った。
「自分の感情を基準にして、人の感情を決める。みんな、感じかたはそれぞれなの。スマイルだって、そうよ。あなたが自責の念に駆られていても、スマイルが同じだとはかぎらない。私は逆に、里親がみつからなくて幸せだったと思うわ。スマイルは、最期まで涼ちゃんと一緒にいることを選んだのよ」
「君も知っての通り、僕は里親希望者に厳し過ぎる。スマイルを引き取りたいって男性を、ホストという職業だけで先入観を持って断ってしまったこと......前に話したよね?」
「ええ、涼ちゃんが断ったあとに別の犬を飼って、ホストをやめて立派に世話をしていたっていう話よね?」
涼也は頷いた。
「たしかに、彼の人柄を決めつけてしまったのは反省すべきことね。でも、涼ちゃんのことが大好きなスマイルにとっては、それはラッキーな出来事だったんじゃないかしら?」
華が、さらっとした口調で言った。
優しさの押し売りはしない。だめなことはきちんと指摘した上で、自分の考えを口にする。
涼也はそんな華のことを誰よりも信頼し、尊敬していた。
「そうなのかもしれない......そうだとしても、僕のやったことは消えない......」
「休憩終わり! 戻るね。 私は、涼ちゃんみたいに暇じゃないの。自分を責めている暇があったら、殺処分から一頭でも多くの命を救わなきゃならないからね」
涼也を遮るようにスツールから立ち上がった華が、カウンターに千円札二枚を置いた。
「私が誘ったから奢ってあげる。じゃあ、マスター、あとはよろしくね!」
「あ、ちょっと......」
華が一方的に言い残し、マスターに手を上げると弾む足取りで店を出た。
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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