168時間の奇跡第6回
「保護犬を引き取りたいと思った理由を、教えて頂けますか?」
「私は、ペットショップに行くつもりだったんですが、主人が里親募集のサイトをみつけてきたので」
「ご主人は、なぜペットショップではなく保護犬を引き取ろうとしたんでしょうか?」
涼也は、翔太に視線を移した。
「里親になればあなた達みたいなボランティア団体の人も助かるだろうし、ペットショップで買えば安くても十万以上はする犬をただ同然で貰えるわけだし、一石二鳥というやつですよ」
翔太が、屈託なく笑った。
沙友里の息を吸い込む音が聞こえた。
「もちろん、一頭でも多くの子達の里親をみつけるのが私達の使命です。でも、それは幸せな余生を送ることのできる環境でなければなりません」
涼也は、言葉を選びながらも核心に踏み込んだ。
「僕達のところにきたら、ジェットは幸せになれないと言いたいんですか?」
翔太の口元にそれまで湛えられていた笑みが消え、憮然とした表情になった。
はるばる足を運んでくれた里親希望者の気を悪くさせるのは本意ではないが、これも保護犬達を守るためだ。
「失礼ながら、いまのお二方はまだ里親として相応しいとは思えません」
涼也は、きっぱりと言った。
「僕の話を聞いてなかったんですか? ジェットを迎え入れるために六畳の部屋も用意していますし、妻は専業主婦で家にいて世話もできますし、株を動かしていますので一般のサラリーマンより収入も多いです。ここまで条件が揃っていて、どこが相応しくないんですか?」
「犬を飼うだけの収入と広いスペースがあるのはもちろん重要です。ですが、それだけではこの子達が幸せな犬生を送れるとは言えません」
「ちょっと、さっきから失礼じゃないですか? 私達がこの子を虐待するとでも言いたいんですか!?」
眉間に剣を刻み、紀香が詰め寄ってきた。
「虐待とか、そんなふうには思っていません」
涼也は、即座に否定した。
「犬好きで経済的にも問題なくて受け入れ態勢も整っているのに、私達夫婦のどこが相応しくないのか理由をはっきり言ってくださいよっ」
紀香が、次第にヒートアップしてきた。
「奥様は、ジェットを選んだ理由として幼い頃からスヌーピーが大好きで、モデルとなった犬種を飼うのが夢だとおっしゃってました」
「そうですけど、どこがいけないんですか!?」
「犬はぬいぐるみやアクセサリーじゃありません。失礼ながら、お二人の会話を聞いていると、迎え入れるのがジェットでなくてもいいふうに感じますし、ご主人はお金がかからないから保護犬を飼うことにしたとも」
「誰がぬいぐるみやアクセサリー......」
「僕は、正直に言っただけですよ。高いお金を出さなくても実費を払えば貰えるから、保護犬を選ぶ......みな、口に出さなくても目的は同じでしょう。じゃなければ、わざわざ飼いづらい成犬を引き取ろうとする物好きはいませんよ」
紀香を遮り、翔太が断言した。
「それは偏見です。保護犬の里親希望者は、ご主人と同じ考えの方ばかりではありません。心身ともに傷ついた犬達に、幸せな余生を送ってほしくて......純粋に、損得感情抜きに不憫な環境にいる保護犬を迎え入れる人は大勢います」
涼也は、翔太の瞳をみつめた。
「そんなの、映画やドラマの中だけの美談ですよ」
翔太が鼻を鳴らした。
「そう思う人がいることは、否定しません。昔の僕なら、ご主人と同じように信じなかったかもしれません。でも......」
涼也は言葉を切り、眼を閉じた。
異臭が漂う寝室、敷きっ放しの布団、ひっくり返った空のボウル、布団の上で横たわる痩せ細った黒いラブラドール・レトリーバーの子犬......瞼の裏に浮かぶ光景は、涼也に教えてくれた。
自分を閉じ込めて見捨てたような飼い主であっても、犬は信じて帰りをじっと待ち続ける。
あのときの子犬が、涼也に教えてくれた。
無償の愛というものが存在するということを。
「いまは違います。映画やドラマの世界でなくても、保護犬に手を差し延べてくれる方が大勢いることを知っています」
「僕達だって、この子に手を差し延べているじゃないですか」
翔太が、不服そうに言った。
「では、お訊ねしますが、ペットショップに無料の子犬がいたとしたら、保護犬とどっちを選びますか?」
涼也は、翔太と紀香を交互に見た。
「子犬に決まってますよ。そんなの、考えるまでもないでしょう」
「私も子犬です」
翔太に続いて、紀香も子犬を選んだ。
「十人中九人はそう答えると思いますし、それが悪いことだとは思いません。もう一つ、お訊ねします。ジェットと会ったいまでも、その子犬を選びますか?」
「同じですよ。だって、二十万とか三十万で売られている子犬が無料なんですよ? 長生きだってするし」
翔太が両手を広げ、肩を竦めた。
「奥様はどうですか?」
涼也は、紀香に視線を移した。
「答えたくありません。どうせ、子犬を選んだら私達を悪人みたい責めるんでしょう!?」
紀香が、反抗的な眼で涼也を見据えた。
「いえ。先ほども言いましたが、九十パーセント......いいえ、それ以上の確率でほかの人達も子犬を選ぶことでしょう。それが大多数で、なにも悪いことではありません。でも、僕達の使命は、残り一割にも満たない少数派......保護犬だからこそ愛情を持って迎え入れたい、という人のもとにこの子達を送り出してあげることなんです」
涼也は、二人の心に伝わるように言葉に想いを乗せた。
「あんた、さっきからおとなしく聞いていればなんなんだ!? こっちは、行き場のなくなった犬を貰ってやろうとわざわざ足を運んでやってるのに、その言い草はないだろう!?」
翔太が、憤然として食ってかかってきた。
「もう、いいわよ。早くこんなところ出て、ペットショップに行こう」
紀香が翔太を促し、勢いよく席を立った。
舌打ちを残し、翔太が紀香のあとに続いた。
涼也は出口に向かう二人の背中に向かって、深く頭を下げた。
「感じ悪い人達ですね!」
村西夫妻がフロアから出て行くと、沙友里が四匹の犬達のリードを手に駆け寄ってきた。
「なんだ、まだ散歩に出てなかったの?」
涼也は、それまでと一転して明るい口調で訊ねた。
「すみません。リアルスヌーピーを飼うのが夢とか保護犬ならただで貰えるだとか、好き勝手なことばかり言ってるんで腹が立って忘れてました」
沙友里が、バツが悪そうに言った。
「まあ、ああいう考えの人のほうが多いのが現実だから。よしよし、おいで。残念だったか?」
涼也は、ジェットのサークルに入ると語りかけつつ抱き寄せた。
「所長は、よく腹が立ちませんね。私なら、叱りつけていたと思います」
「腹を立てるより、見抜くことのほうが重要だよ。僕らの役目は、相手を叱りつけたり説き伏せることではなくて、希望者がこの子達の里親に相応しいかを見極めることさ」
ジェットの垂れた耳の付け根を揉みながら、涼也は思いを口にした。
慈悲の心を持てと言っているわけでも、感情をコントロールしろと言っているわけでもない。
涼也は、里親希望者を叱りつけたり説教するのが無意味だということを言っているだけだ。
「でも、ああいった考えの人達はビシッと言い聞かせて改心させたほうがいいんじゃないですか!? そうしたら、里親になる資格が......」
「それは、僕達が一番やってはいけないことだよ」
沙友里を、涼也は厳しい口調で遮った。
「なぜですか?」
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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