168時間の奇跡第32回
街金融時代......涼也が追い詰め夜逃げした飼い主が置き去りにして餓死したラブラドールレトリバーの子犬の遺骨が入っていた。
トラウマを抱えているのは、自分ばかりではなかった。
華も、生涯、癒えることのない深い傷を心に負っているのだ。
踵を返し建物に戻ろうとした涼也の視線の先に、人影が立っていた。
「沙友里ちゃんも見送りに出てきたの?」
涼也は訊ねながら、沙友里に歩み寄った。
「私、誤解していました」
沙友里が、きれいな月が浮く夜空を見上げながら言った。
「え? なにを?」
「華さんのことです。なんて心の冷たい人だと思いました。だから、所長のことも理解できないんだって......でも、違った。華さんの真意を理解できていなかったのは、私のほうでした。温かい心の持ち主だからこそ、自分の経験したつらい思いを私にさせたくないからこそ、先入観を抱かずに視察に協力してほしいと......そんな華さんを悪く思ったりして、私はだめな人間ですね」
沙友里が、空を見上げたままため息を漏らした。
「仕方ないよ。たとえば僕なら、君が虐待している可能性があるから視察に協力してほしいと言われているようなものだから。沙友里ちゃんにとっての社長も、それくらい信頼している人なんだろうからね」
「ありがとうございます。もし、そういう通報が入ったと華さんに言われたら、所長はどうしますか? 私を疑いますか?」
沙友里が、空から涼也に視線を移した。
「疑わないよ」
躊躇(ためら)わずに首を横に振りながら、涼也は言った。
「じゃあ、立ち入り検査みたいなことはしないんですか?」
「いや、すると思う。もちろん、君に虐待している可能性があるかもしれないと思っているからじゃない。沙友里ちゃんに疑惑の眼を向けている人達に、潔白を証明するためだよ。事前に君に話さないのも、証拠隠滅したんじゃないかと周囲に言われないためさ」
涼也は、言外の思いを込めた瞳で沙友里をみつめた。
言外の思い――涼也も華も、長谷社長を疑っているわけではないという思い。
「そうですよね。真理子社長のためにも、華さんに協力します。でも、どうしてそんな通報が入ったんだろう......」
一転して、沙友里が困惑の表情になった。
「さあ、どうしてだろうね。長谷社長が無実なら、誰かほかの人間の仕業、または店か社長に個人的な恨みを持っている人か同業者の嫌がらせ......いずれにしても、デマであってほしいよ。もし、通報内容のようなことが行われていたとしたら、誰が犯人であろうと関係ない。子犬達がひどい目にあっているのは事実なわけだからね」
涼也は、祈りを込めた瞳で空を見上げた。
どうか、通報は誰かの悪戯であってほしい......沙友里のために、なにより、無力な幼き命のために。
「訊いてもいいですか?」
涼也は沙友里に視線を戻し、頷いた。
「所長から見て、私のいいところってなんですか?」
沙友里が、はにかみながら訊ねてきた。
「優しくて、真面目で、動物思いで、かわいくて......君のいいところは、たくさんあるよ」
「じゃあ、華さんのいいところ......いま挙げたことは彼女にも当てはまりますから、私になくて華さんにあることを教えてください」
質問を重ねる沙友里の顔からはにかみは消え、真剣な表情になっていた。
「あまり深く考えたことないけど......僕のダメなところを知っていることかな」
「え? 所長に、ダメなところなんてありませんっ。所長は完璧で尊敬できる人です!」
沙友里が、ムキになって言った。
「ありがとう。でも、現実の僕は、そんなに立派な人間じゃない。物事を決めつけたり、人の心の痛みがわからなかったり、臆病で現実逃避しようとしたり......そんな僕のダメなところを華はすべて知っているし、優しく慰めたり励ましたりなんてしない。僕のダメなところを、真正面から叱ってくれる。僕が気づくまで決して許すことなく、叱り続けてくれる。自分が悪者になっても、嫌われても、僕に笑顔は見せてくれない。あ、なんか、こんなことを言うと僕がMみたいに勘違いされちゃいそうだね」
涼也は照れ隠しに、冗談めかして言った。
「そんなふうに思いませんから、安心してください」
沙友里も笑ってくれ、涼也は安堵した。
「なんだか、わかる気がします。私になくて華さんにあるものは、強い優しさなんだと思います。私は、男女問わずに大切な人のことを傷つけたくなくて、華さんみたいに突き放すことはできないと思います。でも、その大切な人のために、心を鬼にすることも必要なんですね。あ~あ。やっぱり、華さんには敵(かな)わないな!」
沙友里が、伸びをするように両手を天に突き上げながら言った。
「そんなことないって。君は君で、とても魅力的な女性だよ」
涼也は、本心からの気持ちを口にした。
「じゃあ、華さんと別れて私とつき合ってください」
唐突に、沙友里が真顔で涼也をみつめた。
「えっ......」
「冗談ですよ。そんなに固まったら、傷つくじゃないですか!」
沙友里が、頬を膨らませ涼也を睨みつけた。
「ごめんごめん......」
「ほら、そうやって謝るのも傷つくものなんですよ」
沙友里は言うと、涼也に背を向けた。
「どれだけ待っても所長は振り向いてくれないって、わかってよかったです。だって、三十になってから気づいたら婚活も大変になるじゃないですか」
背を向けたまま、沙友里が言った。
口調は明るいが、微かに声はうわずっていた。
「でも、しばらく人間の男性は好きになりません。私には、ワンコとニャンコがいますから」
振り返った沙友里が、笑顔で言った。
月明りを反射する頬の轍(わだち)に、涼也は気づかないふりをして微笑みながら頷いた。
「最後に、一つだけお願いがあります」
思い詰めたように、沙友里が切り出した。
「なんだい?」
「思い出として、私を抱き締めてキスしてください」
沙友里の濡れた瞳が、想いを乗せて涼也の瞳を貫いた。
「え? あ、ああ......で、でも、それはちょっと......」
予期せぬ願い事に、涼也は動転した。
「また引っかかりましたね! 冗談ですって! ほかの女性しか目に入らない所長に抱き締められてキスするより、トップとハグしてキスしたほうがましですよ! もう遅いですから、早く戻って明日の視察の打ち合わせをしましょう!」
沙友里は歌うように言うと、弾む足取りで「ワン子の園」の建物に向かった。
不意に、沙友里が足を止めた。
「どうしたの?」
涼也は訊ねた。
「あの、打ち合わせするっていうことは、明日、所長も視察にくるんですよね?」
背を向けたまま、沙友里が確認してきた。
「ああ、もちろんだよ。なんで?」
「よかった......心強いです」
沙友里は言うと、振り返らずに足を踏み出した。
涼也はふたたび夜空を見上げた。
明日、彼女にこれ以上、傷つく出来事が起きませんように......。
青白い光を放つ幻想的な月に、涼也は祈った。
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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