168時間の奇跡第8回
「もちろん、君の責任なわけがないよ。こういうのって、誰の責任とか責任じゃないとかの問題じゃないと思うんだ」
デリケートな話題が故に、慎重に言葉を選ぶ必要があった。
「だから、なにが言いたいの? オブラートに包んだような言い回ししてないで、はっきり言ってよ」
華が詰め寄ってきた。
「慣れないでほしい」
涼也は、華がZ県の動物愛護相談センターに移動になってから、ずっと心の奥底にあった懸念を口にした。
「なにそれ? どういうこと?」
華の眉根が険しく寄った。
「人間は習慣の生き物だから、何事も長く携わるほどに環境に慣れていくものだ。外科医や看護師が、大怪我をして運ばれてきた人を見ても動揺せず冷静に対処できるように。また、慣れなければ負傷者を救えないしね。一頭、二頭、三頭......殺処分される犬猫を目の当たりにしているうちに、一頭目のときに心に受けた衝撃を、百頭目のときも感じることができるかが心配なんだ」
涼也は、誤解を与えないよう思いを込めて言った。
「つまり、私が犬猫の殺処分に麻痺して、あたりまえのことのように受け止めないかを心配してくれているってわけね?」
華が棘を含んだ口調で皮肉を言った。
「気を悪くしないでほしい。それが、人間だから。でも、人間に免疫ができても、処分される犬や猫はそうじゃない。犬猫にとっての事実は、信頼している人間に手放され、結果、命を奪われる。人間側の葛藤は、残念ながらこの子達には通じないんだ」
涼也は、フロアの保護犬達を見渡した。
一方的に、人間側に非があると責めているわけではない。
ペットを動物愛護相談センターに持ち込む飼い主にも、どうしようもない事情がある場合も多い。
そして、安楽死を実行する側も思い悩みストレスを抱えているだろうこともわかっている。
しかし、だからといって、殺処分が行われる大義名分にしてはならないのだ。
「やっぱり、私達職員の責任だと言いたいのね......」
華の語尾は、震えていた――膝上に置いた十指が、パンツの生地に食い込んでいた。
「そうじゃないと、言っただろう? 環境に順応するのが人間の本能だから......」
「殺処分に携わる私達が、仕方のないことだと割り切っていると思ってるの!?」
涼也を、華の張り詰めた声が遮った。
「誰も、そんなふうには思ってないって」
即座に否定した......否定しながら、疚しさを覚える自分がいた。
「一日、また一日経つごとに、いつ、上層部から連絡があるかと心休まる日もなく、保護犬達に情が移ったらいけないから、わざと素っ気なく接したり......わからないよね? 保護犬達を引き取り生きる道を与えてあげている立派なあなたには!」
華の叫びが、涼也の胸に爪を立てた。
彼女のことを案じていたつもりだった。
だが、涼也の言葉は、華のことを殺処分も致し方のないことと諦め受け入れる女性だと言っているように取られてしまった。
華が人一倍情に厚く、動物にたいする慈愛の精神の持ち主だということはもちろんわかっていた。
涼也が伝えたかったことは、殺処分に心を痛めているからといって、犬猫の命を奪う免罪符にはならない......殺処分ゼロを一日でも早く実現するためには、憐憫の情や罪悪感に浸っている時間はないということだ。
結果を出さなければ......一刻も早く犬猫の命を奪わない環境にしなければならない。
「立派なわけがない。僕の過去を、君は知ってるだろう? 逆に、学生の頃から獣医学の勉強をしながら動物愛護の活動をしていた君のほうが、よっぽど立派だよ」
お世辞でも皮肉でもなく、本心だった。
「ううん、立派よ。あなたは犬の純粋さに触れて、保護犬の里親ボランティアの活動に邁進している。あなたより遥かに、動物達から無償の愛を受けてきたはずなのに私は環境に流されて、助けを求めている身寄りのない彼らを処分している。これで満足?」
これまで見せたことのないような暗く哀しい瞳でしばらく涼也をみつめ、華は席を立つと出口に向かった。
「あ、それから......さっきの面接希望者に厳しいんじゃないかっていう話だけど、あなたと意見が合わない理由がわかったわ」
思い出したように立ち止まった華が、背中越しに言った。
「なに?」
「私は、貰い手がいないと死と隣り合わせの犬や猫を見ているから、さっきの夫婦みたいな感じでも、この子達を引き取りたいと名乗り出てくれるだけで感謝の気持ちで一杯になるの。至らない点、不安な点があったら、指導して、諭して、この子達を引き取るのに相応しい気持ちが芽生え、知識が身に付くように導く努力をしようと思う。だって、この人達が貰ってくれなければ、明日には処分されてしまうかもしれない子達に直面していたら、そうせざるを得ないんじゃないかしら。涼ちゃんが見ているのは、殺処分ゼロの東京だけの平和な保護犬達......だから、簡単に追い返すことができるんじゃないかな。言い過ぎたなら、ごめん。じゃあ......」
華は堰を切ったように思いの丈を告げると、足早にフロアを出た。
スケートリンクで転倒して後頭部を痛打したような衝撃が、脳内に走った。
「華さんと喧嘩でもしたんですか? 泣きそうな顔で飛び出して行きましたよ」
放心状態で出口をみつめていた涼也の視界に、四匹の小型犬グループを引き連れ戻ってきた沙友里が現れた。
「うん、ちょっとね」
我を取り戻した涼也は、曖昧に言葉を濁した。
「珍しいですね。いつもラブラブなのに」
沙友里が腰を屈め、散歩を終えた犬達の肉球や口の周囲をウエットティッシュで拭いつつ言った。
散歩中に犬はほかの犬の残したマーキングを頻繁に嗅いだり、肛門の匂いを嗅ぎ合い挨拶するので、鼻や髭は雑菌だらけだ。
肉球はきれいにしても鼻や髭は拭かない飼い主が多いが、ほかの犬に感染症が広がる可能性があるので清潔にしておく必要があった。
「みんな、平気だった?」
涼也は、話題を変えた。
話題を変えるのだけが目的ではなく、犬達の歩様や速度に異変がないかは散歩後に常にチェックしていた。
動物は物が言えないので具合が悪くても言葉で訴えることはできないが、ご飯の食べかたや散歩の動きを注意深く観察しているといくつものサインを出している。
「至って順調です。所長の愛情が行き届いているんですね」
「君達の面倒見がいいからだよ。ところで、訊きたいんだけど、僕は面接で厳しすぎかな?」
「もしかして村西夫妻のことですか? 厳し過ぎるどころか、あれでもまだ、優し過ぎるくらいですよ」
沙友里が、思い出したのか憤然とした顔で言った。
「彼らだけじゃなくてさ、なんか、全体的に里親希望者にたいして厳しいことばかり言ってるような気がしてさ......」
「あ! さっき、華さんに厳し過ぎるって言われたことを気にしてるんですね? 大丈夫ですよ! 華さんは、たまたまあの瞬間しか見てないからそう思っただけで、最初から村西夫妻の自分勝手ぶりを見ていたら、厳し過ぎるなんて言いませんから!」
――だって、この人達が貰ってくれなければ、明日には処分されてしまうかもしれない子達に直面していたら、そうせざるを得ないんじゃないかしら。涼ちゃんが見ているのは、殺処分ゼロの東京だけの平和な保護犬達......だから、簡単に追い返すことができるんじゃないかな。
励ます紗友里の言葉を、記憶の中の華の声が掻き消した。
「最初から見ていたとしても......」
涼也は言葉の続きを呑み込んだ。
「え?」
沙友里が怪訝そうに首を傾げ気味にした。
「あ、いや、なんでもない」
彼女は同じことを言ったはず......華にだけ見えて、自分には見えない真実を。
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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