168時間の奇跡第2回
飼い主向けの、飼育マニュアルと心構えなどが書かれたパンフレットや飼育意識を高める啓発用のDVDの製作、小学生を対象とした動物教室の開催、動物愛護の実施、地域の野良猫対策......動物愛護相談センターの上部組織の福祉保健局健康安全部環境保健衛生課では、終生飼育を徹底するために飼い主に向けた様々な啓発活動を積極的に行っていた。
ほかには、東京都動物愛護相談センターがウェブサイト上で二○一七年に開設した「ワンニャンとうきょう」では、保護犬、保護猫を引き取り飼育しながら里親を探すボランティア団体の犬猫情報を掲載している。
それぞれのボランティア団体が開催する犬猫の譲渡会の日程と場所、参加団体の連絡先などが、里親希望者が探しやすいように一ページにまとめられている。
しかし、それはあくまでも東京都にかぎっての話だ。
全国に眼を向ければ、殺処分廃止が行き届いていない地域がまだまだある。
現に、平成二十九年度には犬が八千三百六十二頭、猫が三万四千八百五十四頭、合計四万三千二百十六頭が殺処分されているのだ。
涼也の願いは、一日でも早く全国で犬猫の殺処分が〇になることだった。
口で言うほど簡単なことではないが、十年前までは約三十万頭の犬猫が殺処分されていた事実を思えば、数年後には不可能ではない。
希望を失わず、自分にできる活動を一つ一つやることの積み重ねが、いつか実を結ぶと涼也は信じていた。
「はい、『ワン子の園』です。あ、おはようございます! はい、はい......あ、そうですか。いま、所長に訊いてみますので、少々お待ちください。所長!」
沙友里がコードレスホンの送話口を掌で押さえ、涼也を呼んだ。
「どうしたの?」
トイレシートの交換をしながら、涼也は訊ねた。
朝食が終われば、ほとんどの犬は排泄タイムとなる。
すべてのシート交換が終わるのは九時半過ぎだ。
十時からは里親希望者の面接時間となるので、一息吐く間もなかった。
「ジェットの里親希望の村西さん夫妻ですが、仕事の都合で十一時の面接予定を一時間早くできないかとの問い合わせですけど、どうしましょう?」
沙友里が、伺いを立ててきた。
ジェットはビーグルの雄二歳だ。
「ワン子の園」でジェットを引き取ったのは、二ヵ月前だった。
村西夫妻が、サイトにUPしたばかりのジェットのプロフィールを見て問い合わせてきたのだ。
「ワン子の園」では、引き取った犬が環境に慣れるとホームページに掲載していた。
同時に、加盟している動物愛護相談センターの「ワンニャンとうきょう」にも「ワン子の園」の保護犬情報を載せているので、そちら経由からも問い合わせが入るようになっていた。
「十時は、ほかに誰か入っていたっけ?」
「いえ。今日は十一時の村西夫妻が最初です」
「じゃあ、いいよ」
涼也は言うと、ジェットのサークルに向かった。
施設内に響き渡る声で吠えながら、ジェットが二本足で立ち上がり涼也を出迎えた。
ビーグルはウサギ狩りの猟犬や使役犬として作られた嗅覚ハウンドなので、険しい森や平原で主人に獲物の存在を教えるために吠え声が大きいことで有名な犬種だ。
ビーグルという名前は、中世フランスで「通る鳴き声」という言葉が由来になっているほどだ。
「お前を家族にしたいって人が会いにくるから、おめかししないとな」
涼也はジェットに語りかけつつサークルの扉を開けて中に入ると、口の周りについたドッグフードの滓(かす)をウエットティッシュで拭った。
シャンプーは昨日しているので、ジェットの身体からはいい匂いが漂っていた。
「ジェット、決まるといいでちゅね~」
電話を終えた沙友里が、童顔を綻ばせ赤ちゃん言葉で語りかけた。
いつもスッピンの沙友里は瑞々しく透き通る肌をしており、里親希望者や動物愛護相談センターの職員から高校生に間違われることも珍しくなかった。
タレ目が印象的な、愛嬌のあるマルチーズ系の顔立ちをしていた。
因みに涼也は犬でたとえれば、レトリーバー系の顔とよく言われる。
「じゃあ、私、いまのうちに散歩に行ってきますね」
沙友里は、小型犬用のリードを四本手にしていた。
「今日、三時までだったよね?」
涼也は、ジェットの目やにを拭き取りながら訊ねた。
「渋谷に四時五十分までに到着できればいいので、四時でも大丈夫ですよ」
沙友里は今日、本業のトリマーとして働いている渋谷のペットショップの遅番だ。
「いや、三時に達郎が入っているから平気だよ。ありがとう」
沙友里と入れ替わる時間に、達郎がシフトに入っていた。
「一人でも人手があったほうがいいでしょうから、大変なときは遠慮しないで言ってくださいね」
「ありがとう。沙友里ちゃんには、遠慮しないで無理をお願いしてばかりだから、ずいぶんと助かっているよ。少しは自重しないとね」
涼也は苦笑いした。
お世辞ではなく、事実だった。
沙友里には、「ワン子の園」のためにかなりシフトに融通を利かせて貰っている。
彼女が勤務するペットショップは姉の店なので自由が利きやすいのは事実だが、それでも出勤時間が少なくなれば収入も減る。
「ワン子の園」は愛犬家コミュニティの寄付で成り立っているので、賃金を支払う余裕はない。
施設を始めるときに、常時三十頭の犬は保護すると決めていた。
涼也一人で日本中の飼い主のいない犬を引き取ることはできないが、一頭でも多く保護すれば殺処分される数がそれだけ減るのは事実だ。
だから涼也は、里親が決まりサークルが空くとすぐに動物愛護相談センターから新たな保護犬を引き取っていた。
多少の違いはあっても、餌代や冷暖房の光熱費、ワクチン等の医療費などの支出が減ることはない。
ありがたいことに、首輪、ハーネス、リード、衣服、クレートの類は、愛犬家の人がサイズが合わなくなったものなどのお下がりをたくさん送ってくれるので実費はかからない。
やはり、一番の出費は家賃だ。
「ワン子の園」は、涼也の知り合いが中野駅の南口で倉庫として建てた五階建て雑居ビルの一階を施設として使用していた。
家賃は毎月三十万かかるが、これでもお友達価格でディスカウントして貰っており、まともに借りれば四十万近くする。
毎月の出費は寄付だけでは賄えず、前職で蓄えた貯金を切り崩している状態が施設を始めてからの五年間続いていた。
救いは、十年間勤務していた前職の年収が一千万を超えていたのでかなりの蓄えがあったことだ。
「私も好きでやっていることなので、あまり気を使わないでください。所長だって、同じですよね? あ、そう言えば、所長って以前はどんな仕事をしていたんですか? っていうか、いまも、なにかやっているんですか? 二年近く一緒にいるのに聞いたことなかったので、ずっと気になっていたんです」
沙友里が、興味津々の表情で訊ねてきた。
「どうして気になるの?」
わかっていたが、沙友里にどう説明するかを考える時間が必要だった。
「だって、利益を得る仕事じゃないから、お金が出て行く一方じゃないですか? 私達ボランティアは無償の奉仕で済みますが、所長は維持費や飼育費が毎月かかるでしょう? もしかして、作家さんか作曲家さんで印税収入があるとか?」
沙友里が、パグのラッキーにハーネスをつけながら質問を重ねた。
「まさか」
苦笑いで受け流し、涼也はジェットをブラッシングした。
「じゃあ、ビルやマンションのオーナーさんで莫大な家賃収入があるとか?」
質問を続ける沙友里が、次にシーズーのヒナとトイプードルのモモにハーネスをつけた。
「以前に、そこそこ給料のいい会社に勤めていたんだ。趣味もないような男だったから、自然に貯金ができただけだよ」
涼也は、曖昧に核心をぼかした。
嘘ではなかったが、真実とも違う。
「そうなんですね。でも、所長は本当に凄いです。私財をなげうって保護犬の殺処分を一頭でも減らそうと、二十四時間三百六十五日身を粉にして働くなんて、私には真似できません。それに、中途半端になりたくないからって、親戚に出資して『ニャン子の里』で保護猫の里親探しの活動もしてるし......なんかもう、犬猫からしたら所長は救世主ですよ!」
沙友里が、尊敬の色を宿した瞳で涼也をみつめた。
正確に言えば親戚ではないが、婚約者の華(はな)の姉に出資して保護猫の里親ボランティア活動をしているのは事実だった。
因みに華は、X県の動物愛護相談センターの職員だった。
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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