168時間の奇跡第29回
8
涼也がドアを開けた瞬間、人の気配を察した「ワン子の園」の保護犬達が一斉に吠え始めた。
「ほらほら、もう遅いんだから静かにしなさい」
沙友里が窘(たしな)めるように言いながら、柴犬のトップとサークルの中で独楽(こま)のように回転するトイプードルのモモの頭を撫でた。
まもなく、十一時になるところだった。
保護犬に異変があるなどの緊急事態でないかぎり、この時間帯に施設を訪れることはないので、彼らからすれば嬉しいサプライズだ。
「そんなに跳んだら、脚を痛めちゃうぞ」
折れそうな華奢な後ろ脚で何十回も跳び喜びを爆発させるポメラニアンのスカイに、涼也は優しく声をかけた。
――通報では、その闇業者が獣医学生の手術の練習台として大学病院に売ったり、製薬会社の新薬の実験用として売ったりしているらしいの。生後四ヵ月を超えて買い手のつかなくなった犬をやむなく大学病院や動物病院に提供しているペットショップはほかにもあるみたいだけど、「Dスタイリッシュ」の場合は取引の額が相場の何倍も高いということと、まだ三ヵ月も超えていない十分に売れそうな子犬を斜視だとかアンダーショットだとか、商品価値が下がりそうな要素がみつかると、積極的に闇業者に売っているみたいなの......。
華の言葉が、涼也の脳裏に暗鬱に蘇った。
生後四ヵ月どころか、ここにいる保護犬で一番若いのはスカイの一歳だ。
もし、通報が本当だったら、とんでもない話だ。
身体が大きくなった、上顎または下顎が少し出ている、白目の範囲が広い、通常より胴が長い......ペットショップで売れ残った子犬達が心ない店主の利益主義の犠牲となり、憐れな末路を辿るという話はよく耳にする。
動物愛護相談センターに持ち込まれる犬の中で、ペットショップの店主が一般個人を装い売れ残った子犬を持ち込むことも珍しくはない。
店に置いていても餌代や飼育の手間がかかるから、一日も早く在庫処分したいというのが理由だ。
すべては、人間のエゴだ。
生後四ヵ月の犬も二ヵ月の犬も......成犬も子犬も人間を純粋に愛する一途な心に変わりはない。
飼い主に名前を呼んで貰うことで、犬は嬉しい気分になる。
飼い主に撫でて貰うことで、犬は満ち足りた気分になる。
犬は特別なことをしなくても、飼い主のそばにいられるだけで幸せなのだ。
ペットショップで売れ残った子犬達に、名前はない。
一度も名前を呼んで貰えず、撫でて貰うこともなく、狭いケージに閉じ込められ......。
「所長、どうかしましたか? さっきからずっと、哀しそうな顔で黙り込んでますよ」
コーヒーの入ったマグカップを差し出しながら、沙友里が心配そうに訊ねてきた。
「ん? ああ......大丈夫。こういう施設を長くやっていると、いろいろとあってね。コーヒー、ありがとう」
涼也はごまかし、沙友里の手からマグカップを受け取り応接ソファに腰を下ろした。
スプリングが壊れているので、臀部の片側だけが沈んでしまう。
「ワン子の園」はボランティア施設なので極力出費を抑えるために、調度品やケージ、リード、ハーネスなどは知り合いから中古品を譲り受けたものばかりだった。
このソファも、友人が粗大ごみに出そうとしていたものだ。
「今日はご苦労様。君も、座れば?」
涼也は、沙友里を正面のソファに促した。
「ありがとうございます。あの、お話ってなんですか?」
ソファに腰を下ろしつつ、沙友里が訊ねた。
――悪いけど、涼ちゃん、明日、一緒に視察に行ってくれないかな? まずは視察段階だし、いきなり繁殖場に行くと疑われてしまうから、代官山の本店を様子見したいの。できたら沙友里ちゃんに事情を話して、協力して貰いたいんだけどさ。沙友里ちゃんが案内してくれたほうが、怪しまれずに店に行けるでしょう? 社長が不在だったら、バックヤードとかも見られるかもしれないし。涼ちゃんが言いづらいなら、私のほうから沙友里ちゃんに話すからさ。
ふたたび、華の声が蘇った。
沙友里には自分から話してみると言ったものの、いざとなると訊きづらかった。
結局、渋谷から沙友里の自宅まで送る車内では切り出せずに、中野の「ワン子の園」まで連れてきてしまったのだ。
華にも、沙友里には中野で話すとLINEで伝えてあった。
沙友里が協力してくれるのとくれないのとでは、華の「Dスタイリッシュ」の視察のやりかたも変わってくる。
というよりも、華の立場からすると是が非でも沙友里の協力を仰ぎたいところだ。
だが、いまから涼也が話そうとしていることは、社長の長谷真理子を信頼している沙友里には受け入れられない内容に違いない。
華の気持ちもわかるし、沙友里の気持ちもわかる。
正直、この板挟みはつらかった。
「本当に、どうしたんですか? なんだか、車からずっと変ですよ。もしかして、さっき私が華さんより社長のことを支えられる自信があるなんて言っちゃったから、気を悪くしましたか?」
沙友里が、不安げな顔でみつめた。
「いや、それは全然気にしてないよ」
「よかった......あ、それとも亜美ちゃんのこと、まだ心配しているんですか? お父さんもわかってくれた感じでしたし、大丈夫ですよ」
「うん、そうだね。僕もそうであってほしいと思うよ」
涼也は、曖昧な笑みを浮かべた。
「これも、違いますか? じゃあ、なにか、ほかに悩み事でもあるんですか? よかったら、聞かせてください。私で力になれることなら、手伝わせてください」
「じゃあ、遠慮なしに言わせて貰うけど、さっきの華からの電話で頼まれたんだ。明日、華が『Dスタイリッシュ』の視察に行くから、君に協力してほしいってね」
涼也は意を決し、口にしづらい本題を切り出した。
「明日、どうして華さんが『Dスタイリッシュ』を視察するんですか?」
瞬時に、沙友里が怪訝な表情になった。
「言いづらいことなんだけど、気を悪くしないで聞いてほしい。華が勤務するZ県の動物愛護相談センターに通報があったんだ。通報内容は、『Dスタイリッシュ』の社長が売れなくなった子犬をZ県の繁殖場の倉庫に閉じ込めて、獣医学部の手術の練習台や新薬の実験用として、大学病院や製薬会社に闇業者を通して高値で売っているというものらしい」
涼也は、一息に喋った。
「そんな......」
沙友里が絶句した。
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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