168時間の奇跡第3回
去年まで華は東京都のセンターに配属されており、保護犬の引き取りで涼也が何度か足を運んでいるうちに親しくなり、交際に発展したのだ。
「そんなたいしたものじゃないよ。これ一本に専念している僕より、本業と並行しながら手伝ってくれる君達のほうが大変だよ」
「それは絶対にありません。手伝いだからできるんです。とにかく、私達は所長をリスペクトしていますし、全力でお手伝いさせて頂きますので、手が足りないときはいつでも呼んでください!」
沙友里の尊敬の眼差しが、心苦しかった。
涼也は、蘇りそうになる暗鬱な記憶の扉を閉めた。
「じゃあ、行ってきます!」
沙友里が溌溂と言い残し、四匹の小型犬を連れて外へ出た。
「男前が上がったな」
涼也はジェットのブラッシングを終えてサークルの扉を閉めると、村西夫妻のプロフィールデータをチェックするためにデスクに向かった。
里親希望者であれば、誰でも無条件に保護犬を引き取れるわけではない。
一人暮らしで長時間家を空けなければならない、高齢であったり日常生活に差し障る持病がある、同居者に動物アレルギーがいる、経済的に困窮している、動物愛護相談センターの講習会を受講していない、犬猫を含む先住の動物を飼育している、ペット飼育が認められている住居ではない、保護犬の受け入れを同居者が反対している......などなど、動物愛護相談センターが登録ボランティア団体に出している里親として不適切と判断する九つの条件をクリアしているかどうかを面接で見極めなければならない。
それもこれも、保護犬がふたたび飼い主から捨てられ心に傷を残さないようにするためだ。
涼也がデスクに座ろうとしたとき、トイレマットの上でクルクル回るコール......雄六歳のラブラドールレトリーバーの姿が視界の隅に入った。
「相変わらず、キレのある回転だね」
涼也は笑いながら、駒のように回るコールをみつめた。
回転するのは、排泄のときのコールの癖だ。
コールに、黒いラブラドールレトリーバーの子犬の姿が重なった。
閉じたはずの記憶の扉が、ゆっくりと開いた。
――た、頼みます。来月になれば施工代金が入ってくるので、それまでお待ちくださいませんか?
橋本が、悲痛な顔で訴えた。
――先月も、先々月も......二ヵ月間、同じ言い訳を聞いてますが、一向にお金が入りません。
涼也は、抑揚のない口調で言った。
待ってあげたいという気持ちがないと言えば嘘になるが、仏心は命取りになる。
六年前......涼也が店長を任されていた「ヘルプ&サポート」は中小企業を対象とした商工ローンで、いわゆる街金融だった。
零細企業は銀行から思うような融資を受けられず、利息が高くなっても商工ローンを利用する場合が多い。
もう一つの特徴は、銀行は数千万から億を超える貸付も珍しくないが、商工ローンは数百万単位の無担保小口融資がメインだ。
「橋本工務店」には、運転資金として八百万を融資していた。
最初の半年こそ順調に返済されていたが、大手のハウスメーカーの参入で受注が大幅に減った煽りを受けて売り上げが半減し、徐々に滞るようになった。
銀行のように担保を押さえているわけではないので、取り立ては厳しく速やかに行わなければ不良債権になってしまうのだ。
――今度こそ、本当です! 信じてくださいっ。お願いします! この通りです!
橋本が涼也の足元に跪(ひざまず)き、白髪頭を床に押しつけた。
――橋本さん、顔をあげてください。
――ありがとうございます。必ず返済......。
――勘違いしないでください。そんなことをしても期限は来月に延ばせないとお伝えしようとしただけです。三日だけお待ちします。三日後の正午に会社兼ご自宅に伺いますので、よろしくお願い致します。
涼也は、一切の感情が籠らない声で言った。
橋本には、「ヘルプ&サポート」以外にも三件の街金融から借り入れがあった。
多重債務者に情けをかけて期日を延期しても、別の債権者が取り立てて行くだけの話だ。
――三日なんて......無理です。
――ご返済頂けない場合、連帯保証人に代理弁済をして頂くことになります。
涼也の言葉に、橋本の顔から血の気が失せた。
「橋本工務店」の借り入れの連帯保証人には、居酒屋を経営する橋本の友人がなっていた。
――それだけは、勘弁してくださいっ。善意で契約書にサインしてくれたのに、彼に顔向けできなくなります!
血相を変え、橋本が訴えた。
橋本にとって、友人を信じて契約書にサインしてくれた連帯保証人に迷惑をかけるのがなにより避けたいことに違いなかった。
債務者が一番嫌がり困ることをやるのは、回収の鉄則だった。
友人が取り立てられないように、橋本は是が非でも三日間で滞っている金を用意するはずだ。
――債務者が支払い不能に陥った場合、連帯保証人に弁済義務が生じます。署名捺印して頂く際に、きちんとご説明もしています。
涼也は、淡々と告げた。
用意できないときは、橋本に宣言したように連帯保証人に肩代わりをさせることになる。
――だから、払わないとは言ってないじゃないですか!? 来月まで、待ってほしいと言っているだけ......。
――では、三日後に伺います。ご返済のほう、よろしくお願い致します。
涼也は橋本を遮り一方的に言い残すと、「橋本工務店」をあとにした。
個人の気持ちで言えば、来月まで待ってあげたかった。
だが、そうしても橋本が返済できないだろうことはわかっていた。
涼也が待っている間に、橋本は厳しく取り立ててくるほかの金融会社に有り金すべてを持って行かれるだろうことは火を見るよりも明らかだった。
多重債務者から貸金を回収するのは、残り少ない肉しか残っていない屍に群がるハイエナの争いと似ていた。
もたもたしていたら、肉はおろか骨さえ残っていない。
店長を任されている立場として、貸し倒れだけは絶対に避けなければならない。
――店長っ! 大変です! きてください!
三日後――部下の男性社員とともに「橋本工務店」を訪れた涼也は、ガラス扉に貼られた紙を見て絶句した。
一身上の都合で閉業とさせて頂きます
無意識に、ガラス扉に手をかけた。
カギは開いていた。
店内にはスチールデスクや書庫の類しか残っておらず、金目のパソコンや業務用コピー機などは跡形もなく消えていた。
――夜逃げですかね......?
部下の問いかけには答えず、涼也は階段を駆け上がった。
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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