168時間の奇跡第25回
7
「できれば、ここで待っててほしいな」
渋谷区東――並木橋通り沿いにバンを停めた涼也は振り返り、後部座席に座る沙友里と亜美に言った。
「だめですよ。三人のほうが、相手も下手なことはできませんから」
沙友里が、即座に却下した。
「そうですよ。父は警察官ですから、第三者の眼があったほうが暴走しないと思います」
亜美が、沙友里に追従した。
「僕は逆に、君達に危害が加わらないかのほうが心配だよ」
亜美の話では、父親の博司は酒が入れば人格が豹変しかなり凶暴になると聞いていた。
あんこを虐待するのも、決まって酒を飲んでいるときだという。
涼也は一人で博司に会いに行くつもりだったが、二人が強硬に反対してついてきたのだ。
あんこはいま、「ワン子の園」に保護している。
「人数は一人でも多いほうが安心です。いまも言いましたけど、父には警察官という立場があるので、他人には傍若無人な行為はしないはずです。ただ、酒癖は本当に悪いので失礼なことを言ってしまうんじゃないかと、それが気がかりで......」
亜美が表情を曇らせた。
涼也の考えは違った。
たしかに、博司には警察官としての体裁があるだろう。
自らの立場を考えるなら、新聞沙汰になることをするはずがない。
ただし、それはシラフのときの話だ。
十五歳の少女と援助交際して捕まった警察官、満員電車で痴漢して捕まった警察官、タクシーの運転手に暴行して捕まった警察官......人生を棒に振った警察官に共通しているのは、酒に呑まれるタイプということだ。
「大丈夫だよ。僕も大人だから、暴言の類でいちいち腹を立てないから。わかった。じゃあ、君達の言うように三人で行こう。お父さん、まだ、起きてるかな?」
涼也は、スタンドに立てたスマートフォンのデジタル時計に眼をやった。
亜美の話では、博司は休みのときは五時くらいから酒を飲み始めるらしい。
「父は、飲み始めたら長いんです。七時頃に、あと一時間くらいで帰るっていう連絡を入れたときにはかなり出来上がっていました。休みに私がいないことに、かなり不機嫌になっていたので心配です」
「まあ、そのほうが好都合だよ。ハイドのお父さんに会うのが目的だから。ジキルのときに会っても意味がないからね」
涼也は、明るく言った。
「え? ハイド......」
亜美がちんぷんかんぷんの表情になった。
「なんですか? それ?」
意味が通じていないのは、沙友里も同じだった。
「ジェネレーションギャップっていうやつだね。さあ、お父さんが酔い潰れないうちに行こうか」
涼也は二人の緊張を和らげるために朗らかな口調で言うと、ドライバーズシートのドアを開けた。
☆
並木橋通りから一本裏手に入った路地に建つベージュの外壁のマンションが、亜美の自宅だった。
エントランスに入る亜美に、涼也と沙友里は続いた。
亜美がオートロックパネルで暗証番号を押すと、自動ドアが開いた。
気が急いているのか、亜美が早歩きでエレベーターに向かった。
「亜美ちゃんがいなかったら、インターホンで苦戦していたかもしれませんよ」
沙友里が亜美を、小走りに追いつつ言った。
「そうかもね」
沙友里の言う通り、博司の酔いの回りかた次第では、オートロックのドアを開けて貰うのに押し問答していた可能性は否めなかった。
三人がエレベーターに乗り込むと、亜美は五階のボタンを押した。
緊張しているのか、亜美は上昇する階数表示のランプを硬い表情でみつめていた。
国民を守り平穏な暮らしを与えるはずの警察官が、皮肉にも娘を不安にさせていた。
エレベーターを降りた亜美は、五〇三号室のドアの前で足を止めると深呼吸をしてからシリンダーにキーを挿入した。
ドアを開け、亜美が強張った顔で涼也と沙友里を促した。
すぐに、沓脱ぎ場の革靴が眼に入った。
年季が入り履き潰された革靴は、端に綺麗に揃えられていた。
酔っていないときの博司の性格が表れていた。
シラフのときに几帳面で真面目なタイプは、己を厳しく律する反動で酒癖が悪くなる場合が多い。
「ただいま」
亜美が声をかけつつ、廊下に上がった。
「お邪魔します」
小さな声で言いつつ、涼也と沙友里もあとに続いた。
廊下の突き当り――木枠のガラス扉から、微かにテレビの音が漏れ聞こえてきた。
「お父さん、ただいま」
亜美が言いながら、扉を開けた。
八畳ほどの洋間のソファでロックグラスを口元に運ぼうとしていた四十絡みの男性......博司が振り返った。
短髪で猪首(いくび)のがっちりした体型は、いかにも武道に通じた警察官という感じだった。
博司の顔は、既にアルコールで赤く染まっていた。
ガラステーブルには、ウイスキーのボトルやスモークチーズ、カシューナッツなどの酒の肴(さかな)が並んでいた。
グラスの琥珀色の濃さからして、ロックで飲んでいるようだった。
「夜分にお邪魔して申し訳ありません」
涼也は、亜美の隣に歩み出て頭を下げた。
「誰だ、お前は?」
博司が、充血した眼で涼也を見据えた。
「僕は亜美さんがボランティアで働いてくれている保護犬施設の者で、沢口涼也と申します」
「はじめまして。私は、亜美さんと同じペットショップで働く石野沙友里です」
涼也に続き、沙友里が頭を下げた。
「なんだ、娘を堕落させてる奴らか」
博司が吐き捨て、クチャクチャと音を立てながらスモークチーズを食べた。
いきなりの喧嘩腰で、博司は最初から敵意を隠そうともしていなかった。
「お父さん、そんな言い方失礼でしょ!」
亜美が、博司を諫めた。
「失礼なのは、夜に家に押しかけてくるこいつらのほうだろうがっ」
父親がマドラー代わりの割り箸で、涼也と沙友里を交互に指した。
「私が頼んで来て貰ったんだから、そんなふうに言わないで!」
亜美は怯まずに、博司に食い下がった。
「こんな時間に、いったいなんの用だ!?」
「あんこちゃんの件で、お話があって伺いました」
「あんこ? ああ、そう言えば、あの犬はどうした? 保健所にでも連れて行ったのか?」
博司が、ニヤニヤしながら亜美に視線を移した。
「そんな言いかた......」
涼也は、気色ばむ沙友里の腕を掴み制した。
「連れて行くわけがないでしょう!? 『ワン子の園』に、預かって貰ってるのよっ」
亜美が強い口調で言った。
「あ? ワンコ?」
「はい。『ワン子の園』は、僕が運営している保護犬施設です」
涼也は説明した。
「人の犬を勝手に連れて行くのは、窃盗だぞ。お前、どういうつもりだ? 刑事の家の犬を盗むなんて、いい度胸してるな? お? なんなら、逮捕してやろうか? お?」
博司は据わった眼で涼也を睨み、縺れる呂律でねちねちと絡んだ。
「所長は窃盗なんかしてません! あなたがそうやってお酒に酔っぱらってあんこちゃんを虐待するから、保護しているんじゃないですか!」
沙友里が、博司に強烈なダメ出しをした。
「なんだと!? もう一度言ってみろ!」
博司が血相を変え、ソファから立ち上がった。
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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